Ⅲを解除して、十字架のイヤリングを手に社さんと寄白さんのところに向かう。
といっても俺の目と鼻の先だけど。
社さんは俺からすこし離れた場所にいて、包帯のように巻いた弦と目元にあったイヤリングをはずしている。
あの若い女の人はあいかわらず茫然としていた。
社さんは弦の伸ばし、それをこのビルの屋上の貯水タンクの脚に括りつけ弦を引くようしてここまで飛んできた。
もう能力を隠す気もないみたいだ。
社さんはその女の人の目の前にピタっと着地した。
「大丈夫ですか?」
社さんが声をかけた。
――えっ、ああ、うん。
何秒間かの沈黙があってから、女の人はそう答えた。
「そうですか」
「幽霊……」
やっぱり、その女の人が見た制服の幽霊は社さんだったんだ。
「あいにくですけど、私は……」
社さんはそう返した。
「生身ってわけでもないけど、ちゃんとした高校生です」
言い終えたの同時に伸びていた弦は社さんの手のひらに消えていった。
能力者って生身かどうか答えるのは悩みどころだよな。
社さんはクルっと背を向け俺のほうへ歩いてきた、反対に寄白さんが女の人へと近づいていく。
「まあ、なんだっていいか。あの絵が棺のふたを開けてくれたんだし」
女の人は嘘のように朗るくなって話をはじめた。
「高校生か。いいよね? 自由だし。なんたって未来があるもんね」
女の人が手元を照らしていたスマホのライトが上空に向かって伸びている。
「さっき私に話してくれた話、また聞かせてよ? 話すだけでも楽になれるってことがあるからさ」
寄白さんがいった。
「そう、だね。高校生たちへ。こうなっちゃいけないって見本にしてね」
女の人が話をはじめると寄白さんは黙って話を聞きつづけていた。
それは俺も社さんも同じだ。
その人はまず最初に川相憐と名乗った。
自分のデザインした服を作りたくて服飾の専門学校にいったそうだ。
「……それでしかたなく学校と付き合いのあるアパレル会社に就職。っていっても本部じゃなくテナントショップの店員ね」
挫折か……。
自分で選んだ道じゃなくて 選ばざるおえなかった道。
裏を返せば消去法で出した答え。
この世界にいるどれだけの人が叶えたい夢を叶えられるんだろう。
「まあ、結局は私に才能がなかっただけ。そんなある台風のときめったに休みにならない店が休みになってさ」
最近は天気もおかしいから急に休みになる店もあるか。
いつから世界の天気がおかしくなった、夏に降る雪だってあるかもしれない。
それは今、関係ないか。
「そこから私の引きこもりのはじまり。あの台風は周囲の木々と一緒に私の心も折っていった。弱いよね。でも、どっちみちこんなメンタルじゃデザイナーなんてできないって気づいたのがいちばんダメージだった。もう十三年、あなたたちが保育園に通ってるころから私は外に出れなくなってずっと家のなか」
Ⅱが鵺を退治するより三年も前、か……。
そんな前から家のなかにずっと居つづける。
今日の放課後に佐野がいっていた。
――当たり前は、その場所から落ちて頭上に”当たり前”が見えるから、ああ、当たり前って大事だったんだって気づけるんだよな?
川相さんにとって、俺たちの”ふつう”ははるか頭上にあったんだ。
「明日こそ、明日こそって希望を持って再就職しようと思っても月曜日は準備の日。火曜日はもう一日準備が必要。水曜日はちょっと休憩で一日休み。木曜日はもっと条件の良い会社がある気がしてまた会社を探し直す。金曜日は土曜日の前でコンタクトすると会社に迷惑だから来週にしよう。土日は世の中休みだからって私も休む。そうやって自分を甘やかすことの繰り返し。十二月になると心機一転で来年に向け頑張ろうって早々、今年を諦める。新年になったらなったで、お正月だから動かなくていいかって布団に包まり心のなかで六角神社に初詣。そして本格的な冬を前にもうすこし暖かくなったら動こうと思う。諦める理由を正当化させること六年目に母が自殺した」
……辛すぎるな。
たしかに川相さんは誰かに足を引っ張られたとかじゃない、自業自得な部分もある。
ただ、ものすごく悪いことをしたとか世間に迷惑をかけたとか誰かを傷つけたわけじゃない。
苦しみの代償としては大きすぎる。
「私はお母さんの期待になにひとつ答えられなかった。”ふつう”にさえなれなかった」
川相さんは堪えきれずに泣いていた。
「お母さんが死んだときなんてさ。絶対に這い上がってみせる。こんな生活からは絶対に抜けだしてみせるって思って懺悔の気持ちとか怒りとか悲しみがぜんぶ混ざって無敵になったみたいで何だってできる気がした。できたドキュメンタリーってそうでしょ? 母の死をバネに人生が変わりましたって。でも現実は違うんだよ。これでもそのときは会社に電話をかけて履歴書を送った。でも、不採用通知が届いたとき心底ホッとした。あんな世界に二度と戻りたくないって思ってたし。この生活のリズムも壊されたくなかったし。それに私は一歩進んだけど拒んだのは社会のほう。あれだけあった決意も一か月持たずに消えていった。もう救いようがないのよ私。志望動機だってあきらかにやる気のない内容ではじめから落とされるために書いたようなもの」
川相さんはもう心が傷だらけだったんだろう。
あまりに大きすぎる傷は独りでなんか治せない。
心の治療をしてたら、もっと違ったかもしれない。
送られきた履歴書を見てその文字に潜む苦しみに気づける担当者っていないのか? 会社ってやっぱ弱肉強食か。
「もう、そのあたりから精神もおかしくなってきて、ここ何年かはずっとリストカットで精神を保ってたんだ。けど今回お父さんが死んでさすがに限界。もう、こんな世界に生きていたくないの」
川相さんの服の袖口からいくつものリストカットの傷口が見えていた。
何度も何度も手首を傷つけた厚みのある古い傷跡。
川相さんはその回数だけ血を流しつづけたんだ。