第310話 調書


 女性警察官はすっかり話し込んでいて、しばらく目を向けることのなかった調書に目をやった。

 六角駅の前にばら撒かれたビラをビニールのままもう一度掴んでながめたあと机に戻しビラの位置を右手でわずかにずらした。 

 「川相総かわいそうのビラの内容って警察発表してないですよね?」

 「してないよ」

 「なのにネットに川相総かわいそうの顔写真までアップされてたんですか?」

 「公衆の面前でビラを撒いてるし川相総かわいそうの頬の黒子も目立つからな。ビラを拾ったやつは内容も知ってる。社員なのか、近所の誰かなのか、あるいは友人、知人、まあ、出所追うのは難しいわな」

 「飛び降りの動機もネットでは会社への待遇と人間関係の不満。それと社会に対する怨みってことになってたんですね……」

 「ネットでは不確定でもPV稼ぎのエサになるから。だからネットの記事すべてが真実とはかぎらない。どころか公的機関が発表してないことでも真実になる。陰謀論のソレと同じさ。会社への待遇、人間関係の不満、社会への怨み。いかにもな自殺の理由を合わせただけだろ」

 「動機になりえる理由の候補なんてそんなに多くないですもんね?」

 「ネットではプランターに落下したために大事に至らなかったってなってたけど

。検視の結果だと頸椎やって即死だとよ。ついでに薬物反応もなかった。それくらいネットの情報は曖昧なんだ」

 女性警察官はさらに調書をめくった。

 その場から二メートルほど離れた空気清浄機と除湿器が稼働しているところでも紙を捲る音とカタカタとパソコンのキーボードを打つ音がしている。

 「川相総かわいそうの娘はずっと家から出られない状態だったんですね?」

 「それも軟弱な甘ったれだろ」

 「だから」

 「これが昭和の叩き上げなんだよ。ただ、黒杉工業が川相総かわいそうの印象操作に使った部分がそれだ。川相総かわいそうは定年も間近なのに家から出ない娘のことを相当悩んでいた。8050 問題、7040問題ってのがあるだろ。親が八十代のときに子どもは五十代、親が七十代のときに子どもが四十代、親も子も年をとっていく」

 「親の年金で暮らしていたために親の死を隠し年金を不正受給って事件も多いですしね。それと同じくらい無理心中も。事件直後は世間は騒ぎますけど、すぐに下火になっていきますよね。どっちに転んでも誰も救われない」

 「川相家でいえば6030問題ってことだけど。だから黒杉工業はメディア相手に川相総かわいそうはいつも情緒不安定だったって印籠かざしたんだ」

 「卑怯なことを。でも、いや、わかってますよ。班長はちょっと古い人なだけで言葉にそこまで悪意を含んでないってこと。ただ、いいかたをもっと柔らかくしないとですね。えっと、ここには川相総かわいそうの奥さんも自殺って書いてありますけど」

 「それも黒杉側の手札カードになった。川相総かわいそうはそういう不遇の環境だから乱心しても無理はないってな。それをきいたメディアは深い負いせずに黒杉工業から撤退。裏どりもしたんだろうけど、それが事実なんだからそれ以上追及はできないわな。結局、あのビラも川相総かわいそうの逆恨みってことで終了。だから、もっとそれ」

 六波羅が女性警察官の机にあるビラを指さした。

 「ちゃんと書いておけってな」

 女性警察官も再度ビラを見直した。

 「メディアも下手なこと書くと、逆に黒杉工業から提訴されかねませんしね」

 

 「川相総かわいそうの妻の事件は、今から五年前くらいだったか」

 「奥さんのことも知ってるんですか?」

 「ああ、あのときも俺が臨場してるし」

 「そうだったんですか? 理由は?」

 「根本的な理由は娘に届いた第一志望の会社の採用通知を捨てたことだ」

 「もしかしてそれで娘さんが引きも持ったとか? えっと。川相家の長女」

 女性警察官は調書に指を這わせた。

 「川相憐かわいれんはそれが原因で家に引きこもった?」

 女性警察官はフルネームでいい直した。

 「間接的にはそうかもな」

 「間接的?」

 「ああ、母親はファッション業界なんかじゃなく川相憐かわいれんにもっとふつうを求めてたんだ。俺も奥さんのその気持ちわかるわ。俺よりすこし下の世代くらいまでは一億総中流いちおくそうちゅうりゅうって誰でも正社員になってマイホーム、マイカー、年に一回くらいハワイに旅行みたいな価値観があったんだよ」

 「日本で新エネルギー発掘されるようになりましたっけ? 一億人がそんな暮らしできるわけないじゃないですか?」

 「昭和の後期は本当にそれがあったんだよ」

 「ああ、あの噂のバブルとかいうやつですね」

 「そう。泡だからバブル。言葉どおりに弾けたけどな」

 「バブル崩壊は教科書に載ってました。あれ歴史の一部だと思ってました」

 「そこまで古い出来事なのか? 明治維新、大正デモクラシー、昭和バブル。これがジェネレーションギャップってのか」

 「私にはいまいちピンとこないですけど、それを同列にしていいものなんですか?」

 「並ぶだろ」

 「そのあと川相憐かわいれんはどうなったんですか?」

 「なにも知らないまま別の服屋に就職したよ」

 「班長。服屋って」

 「じゃあなんていうんだよ」

 「ショップ」

 「ならそのショップだよ。そもそもショップって英語で”店”って意味だろ? バブルも泡だろ。俺らのときは中学英語でそう教えられたけどな。まあいい。それこそが自殺の原因なんだ」

 「えっ? そのどこに自殺の原因が? 川相憐かわいれんは採用通知を捨てられても別のショップに就職できたんじゃ」

 「いや、それがよ。川相憐かわいれんの希望職ってのがファッションデザイナーだったんだけど採用通知には横文字のなんとかって職種で就職してくれないかって書いてあったんだとさ」

 「なんとかって?」

 「こんなヨレたスーツ着てる俺にわかるかよ。どのみちシャレたなんとかって役職だよ。ショップをとしてか知らん俺よりもそこのキャリアにきけ」

 六波羅は視線の先、一メートルで借りてきた猫のように座っている紺のパンツスーツの人物に視線を移した。

 「戸村さんわかりますか? あっ、いえ、戸村刑事」

 女性警察官は離れた席にいるすこし年上の女性に訊いた。

 だが、女性警察官はすぐに頭を下げて――すみません。と謝りつつ席から立ちあがり、もてなすようにして空気清浄機と除湿器のツマミを回してそれぞれの効果を強めていった。 

 

 戸村と呼ばれた女性は2in1のノートPCから首を傾げ、女性警察官を視界に捉える。