第322話 灰色の町―戸村伊万里(とむらいまり)―


私は父を尊敬している。

 健やかなるときも病めるときも、ふたりもそんな誓いを立てたはずだ。

 損得勘定なく、とっさに身を挺せたのはそういうことだろう。

 

 父はダイニングテーブルのイスに腰かけ新聞を読んでいて、母はガスコンロの前でグツグツ煮立った鍋をかき混ぜている。

 私たち家族がみんな好きなビーフシチュー。

 

 父は頃合いを見計らったように観音開きの食器棚から四人分の茶色の器をとってテーブルに乗せていった。

 カチャカチャとスプーンとフォークを並べてから、また新聞に向かう。

 母は後ろを振り返って――お父さんはいつも食器を中途半端にしかださい。と笑った。

 どんな柄の食器が今日の母の気分なのか母にしかわからないから、父が茶色の皿しかださないのはしょうがない。

 茶色の皿は白の食器と違ってビーフシチューの汚れが目立たないから、ビーフシチューやカレーのときのお決まりだった。

 

 母の腕に縒りをかけた夕食がもうすぐできあがる。

 美味しそうな匂いが私と伊織のいるリビングにまで漂ってきた。

 窓の外では隣の家の犬のワイズが鳴いていて、二軒向こうの小泉さんとじゃれあっている声が聞こえた。

 すこし遠くで小型のバイクの音がしている。

 新聞配達のバイクだろう。

 うちのポストに入れたあとでもまだ配達する場所はあるから。

 私の横にいた伊織は座卓にある飲み物を指さして――伊万里も飲む?伊織はそういったあとに悪戯するように――あげない。と私より先に飲み物に手を伸ばした。

 ――伊織。私もついムキになった。

 

 途端に私の体はジェットコースターのカーブのような感覚に襲われた。

 伊織に押された? 私の視界はそのままブラックアウトした。

 何秒? 何分? 何十分? それとも何時間? どれくらい時間が経ったのか記憶が抜け落ちている。

 街の雑踏も誰かの足音も、犬の鳴き声もなにも聞こえない静かな場所。

 それに私の頭がどこを向いていて足がなにを踏んでいるのかもわからない。

 上下の感覚がまったくない。

 時間の感覚もないけど窮屈なこの場所でゴムが焼けたように焦げ臭いがしていた。

 鮮明になってくる意識とともに私はとっさに身を起こした。

 起き上がった瞬間に誰かに額を強く殴られて、体がガクンと沈む。

 痛っ!? 

 私は睨むように誰かを見上げてみた。

 私を跪かせたのははりのように大きな柱だった。

 今度は頭上の木材をすりぬけて木と木のあいだから顔をだしてあたりを見回す。

 これはいつかテレビで見た内戦国。

 多国籍軍が独裁国に介入し武力によって政権を制圧したあの光景と同じだ。

 そこらじゅうで火の手があがっていて、喉がイガイガする化学物質の煙が燻っていた。

 遠くに閃光が見えた。

 そこで私は気づく聴力をなくしていたことに。

 あの場所でまたなにかが爆発した。

 見渡すかぎり潰れた団欒だんらんだらけだ。

 茫然と立ち尽くしていると、私の近くにも人がいて悲鳴と叫びが無声映画のようにこえてきた。

 瓦礫の町はモノクロ映画のように色をなくしている。

 

 誰かが屋根からはみ出ている足を一生懸命に引っ張っていた。

 誰かが顔の半分を赤く染め、爪のない指で上がるはずもないコンクリートを持ち上げようとしている。

 誰かが小さな木の棒で一生懸命に土を掻いていた。

 土にはただ一筋の線しか残らない。

 左前方にある鉄のスコップを使えば、その何十倍も土を掻き出せるだろう。

 混乱は人の思考までも殺していく。

 突然、引っ張られた袖。

 伊織は大声むごんで私の名前を呼んでどこかを指差していた。

 そこには屋根の破片と木材の下敷きになった父と母がいる。

 どういう理由でそこにドアがあるのかわからないけど二階のドアがあった。

 

 なにが起こったの? 後発的な能力者の私と伊織はこの場所でたいした使い道のない能力を得る。

 それがある能力の発現だとあとで知った。

 感情を圧縮して今は平静を保っている。

 それでも母に覆いかぶさっているを見て私の願望が心のなかで決壊した。

 どうして、私の能力は人を治す能力じゃなかったんだろう。

 私に与えられた能力がオムニポテントヒーラーならレンガの下敷きになっている犬のワイズも電柱の下で大の字になっている小泉さんもバイクと一緒に倒れたまま動かない新聞配達員も、観音かんのんによって片腕になったお父さんも、沸騰したシチューで顔をただれさせたお母さんも元に戻せるのに。

 私が全能の治癒能力者だったなら片腕だけのお父さんに体を戻して、爛れて口も鼻も目もわからないお母さんの顔もきれいに治せるのに。

 

みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな 

みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな 

みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな みんな 

ここにいる全ての生命を救えるのに。

どうしてこんなに無力なの。

 

 これが声だったならきっと驚いて人がでてくるくらいの絶叫なのに。

 私に全能の治癒能力があれば両親ふたりはまだ生きていたかもしれない。

 親戚のなかに私たちの引き取り手はなく、私と伊織は遺児になった。

 私の耳が治ったころに私の家は違法建築だったんじゃないかと耳にした。

 そういうを捜査するのは警察でも捜査二課という部署が担当だという。

 伊織は違法じゃなくても合法でも、あの地震ではどんな建物だって耐えられないといった。

 まず公権力こうけんりょくを得るには公務員・・・になるのが近道だ。

 四仮家元也、現在は総務省参与のポスト。

 どうして組織図に乗らない役職なの? 孤児や遺児を助けるはずの六角市の『幸せの形』まで利用して。

 私が心の底から欲した全能の治癒能力を持っていながら、あなたはなにをしてるの?  

 遺された者は強くなるしか生き残るすべはない。

 弱ければ死あるのみ。

 それは全世界共通だ。

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