第358話 idol ―堕天(だてん)―


 美亜は手すりに片手をかけながら虚ろな目で、もう片手の手相をじっと見ていた。

 物理的な鏡でもコンパクトミラーでもない己の死期が近い人がするとされる手鏡現象と呼ばれる行為だ。

 (どうせ私は摘みとられるだけに咲く花。摘まれること前提の花でしかない)

 どこからともなく重い瘴気を含んだ風が吹いてきた。

 

 「ねえ。私が死ぬとこ見てて」

 美亜は壁際にある真っ黒な和彫りの額縁に声をかけた。

 

 (アプリ加工するような笑顔も、もうらなくていいよね? 作り笑いに疲れちゃった)

 弱った心につけいるよう、その絵は表情を変えたようだった。

 美亜は双眸をゆっくりと閉じると手にグッと力を込めて手すりを乗り越えた。

 (私は何万人のなかの一人に選ばれたのに。なのに、なのに。数百、ううん、もっと狭い範囲。三百人の中の数人。どうしてその三百人の中の数人には選ばれないの。最前列に出てみたい。焦げるようなスポットライトひかりを浴びたてみたい。不運はどこまでいっても不運。最初の選択が当たりだったならもっと自信が持てたはずなのに。もう、怖がることなんてない。この高さなら即死できる)

 美亜は爪先が数センチも飛び出している、屋上の縁で両手を広げた。

 己の背後に瞬間的な風圧を感じる。

 美亜は空に飛び込むようじょじょに体を傾けていった。

 ――ちっ。

 美亜は風切り音なのかわからないような舌打ちと女性の声をきいた。

 ゆっくりゆっくり体が重力に引き寄せられる。

 ある場所を境にして急激に体が沈む。

 ついに美亜の体は空中へと飲まれていった。

 美亜は己の体全体で風を感じた。

 

 (一……二……三……? 四……五……? 六……まだ意識がある……? とっくに地面と衝突してるはずなのに……。それとも生と死の感覚なんて曖昧なのかな? 不思議と痛みもない。まるで浮いてるように体がふわふわしてる。もしかして、私はもう、すでに死んでて痛みの感覚もないのかな?)

 美亜は体を起こすと白に包まれた世界にいた。

 顔の前にぴったりと白い世界が張りついている。

 

 (なにもない真っ白な世界……ちゃんと死ねた? の、か、な? なのに死後の世界は現世と同じ雑踏おとがしてる。それに息が苦しい。窒息しそう……)

 美亜はまるで水で濡らした布を口元に当てられたように苦しんでいる。

 「美亜先輩。大丈夫ですか?」

 (誰かが私の名前を呼んでる。これって本当は病院のベッドで幽体離脱して自分を眺めてるとか? でも、この声って、聞き覚えがあるような声。――我々六角第一高校から直線距離で三十キロ先に六角第二高校があります。それと同じくここから直線距離で三十キロ先に六角第三高校があります。――七不思議制作委員会。あのヘンテコな集会……どうして九久津くんの声が)

 美亜が視界が突然開けた。

 現世そのままの世界がある、そして、きれいな男子高生の顔も、だ。

 九久津は白いカーテンのようなものを押し退けて美亜をのぞき込んでいる。

 美亜は反射的に辺りを見回す。

 薄暗くはなってはいるが、まだ、周囲の景色を判別できるほどの明るさだ。

 (ここってビルの下? なら、ここはこの世?)

 「く、九久津くん。なに、どいうこと?」

 美亜の視界に再度九久津の姿が飛び込んできた。

 「そのぶんだと大丈夫ですね?」

 九久津は美亜の背中と膝の後ろを持ってからゆっくりと抱き上げた。

 「きゃ。な、なに、おばけ!!」

 美亜は今の今まで自分が載っていた物体に声をあげる。

 赤い吊り目が美亜を凝視していた。

 「私、やっぱり死んだの?」

 「いや、ちゃんと生きてますから?」 

 「じゃあ、九久津くんのほうがおばけ、と、か?」

 「いや、俺もちゃんと生きてますから。美亜先輩、たったひとつしかない命なんですから大事にしてくださいよ。といっても忌具に障られたんじゃしょうがないか。ふつうの人間にそれを言うのも反則だな」

 「ふつう・・・の人間? このおばけはなに?」

 「ああ、こいつは一反もめんです」

 「い、いったんもめん。そ、そう。あの、ありがとうございました」

 美亜は九久津の腕のなかで一反もめんに会釈をした。

 「なんかだからよくわからないけど。でも私バカだよね。死のうとした人間がおばけを怖がるなんて」

 美亜は九久津の顔を見上げた。

 (九久津あなたをちゃんと見たのは他でもない七不思議制作委員会っていう変わったイベントをしていたとき。変な後輩くんがいるなって思ったのと同時にこの人はどこか別の世界にいると思った。あのとき九久津あなたは真面目なようだったけどどこか他人と距離をとっていた。学校で見かけるたび九久津あなたの心はどこか他所よそと向いている気がした。今の九久津きみからはそれが消えている。大きな悩み事でも解決したのかな? 私のアイドル活動はあのときすでにもう行き詰っていた。だから私は――九久津くんの好きな人って誰?――あんなことを……なのに私はまたこんなふうに。あの日の九久津あなたが私を救ってくれたのに……)

 「美亜先輩。生まれた日からいちばん遠くにあるのが命日です。先輩まだ十七か十八ですよね? 誕生日からまだ沖にも出てないですよ?」

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