第406話 労災隠し


 「いや、そんなことはない」

 「うそくせーな」

 張り詰めた空気のなかまた自動ドアが勢いよくがーっと開いた。

 頭の後ろで栗毛ちゃいろの髪を束ねた女の人が足早に銀行の中に入ってきた。

 透明な小さなポーチを小脇に抱えている。

 ポーチの中には紙幣さつほどの大きさの紙がたくさん入っている。

 

 その人も紺色の制服を着ているけどここの銀行の制服じゃない。

 この近くにあるどこかの会社の人で会社の用事を済ましにきたんだと思う。

 あの紙の束の使いみちはよくわからないけどお仕事系アニメではよく見かける。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人は銀行に入った瞬間からこの空気感でみんなに見られているから戸惑うのも当たり前だ。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人は自動ドアから何歩か進んだところで足を止めこの空間を見渡した。

 

 本来の銀行とはまったく別の光景に眉をひそめた。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人の右斜め前方で班長さんが薄い青色のツナギの男の人の腕を掴んだままでいた。

 ここで何がったかわからないけど事件なにかあったことだけはわかる。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人もなにかしらの身の危険を感じたんだろう。

 そこから一歩後ずさった。

 つづけざまに二歩下がると栗毛ちゃいろの髪の女の人を逃がそうとするように自動ドアが開いた。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人は素早く体を翻す。

 ――ざっという靴の音だけが俺の耳に残った。

 走り去ったってかんじか。

 班長さんが検美石さんに目で合図すると、検美石さんは栗毛ちゃいろの髪の女の人を追っていった。

 事情説明でもしにいったのかもしれない。

 

 班長さんと薄い青色のツナギの男とのあいだで止まっていた会話がまたはじまった。

 仕切り直しという感じで班長さんも、薄い青色のツナギの男も少し冷静になったみたいだ。

 

 「なあ、駅前のビルからビラが撒かれた事件知ってるか?」

 「あの飛び降りのだろ。六角市じゃあの有名だろあれ」

 「あれに黒杉工業が関与してる」

 えっ!?

 警察ってまだ川相総かわいさんの事件を調べてたのか? あのときあの場所に偶然居合わせた佐野だってまだビラを持ってるくらいの大事件だ。

 警察は六角市に出る変質者だけを追ってるわけじゃない。

 でも、川相総かわいさん飛び降りがスーサイド絵画の影響だったとしたら警察じゃどうにもできないんじゃないか?

 「じゃあ、その被害者も労災適用されなかったんだろ?」

 「警察はそのあたりのこと捜査しらべたいと思ってる」

 俺は体を屈めた。

 「あの校長?」

 声を潜めて校長に訊いてみる。

  

 「ん、なに?」

 校長も俺に釣られ声量を落とした。

 「ろうさいかくしってなんですか?」

 「ああ、労災隠しっていうのはわかりやすく言うと通勤中を含む働いてるときに負った怪我や病気のこと。それを隠すことが労災隠し。まあ、世の中的にも悪いことよ。ただ黒杉さんって株式会社ヨシリロうちとも取引があるのよね。市内の工事の多くをやってるし。でももし労災隠しなんてやってるなら今後の付き合いを考えないけないわね。私、会社の交友関係の覚えが悪くて経理部長さんに呆れらたことがあるのよ。孫請けの白杉さんはしっかりした会社らしいんだけど」

 あのビラの”己の罪を償え”ってのはそのことか? 屋上からあれを撒いてみんなに知らせようとした。

 でも川相総かわいさんはビラを撒くだけじゃ足りないと思って飛び降りた?

 そこにスーサイド絵画の影響があったなら川相総かわいさん本当はこの件を知らせたいだけで飛び降りるつもりはなかったんじゃないか。

 だって娘の川相憐かわいさんのことを残していけるわけがない。

 俺と校長は声を潜めながら話しているときも、班長さんと薄い青色のツナギの男も何か話していた。

 客のなかにも――黒杉工業というひそひそ話が聞こえた。

 六角市ならほとんどの人が例のビルの飛び降りのことは知ってるはずだよな。

 また銀行の自動ドアが開いた。

 栗毛ちゃいろの髪の女の人が出て行ってから五分も経ってない。

 この時間帯って会社の人みんな銀行にくる時間なのかもな。

 混雑時ってやつか。

 今、中に来た人は運が悪い、な、えっ!? こんなことってつづくのか?  見慣れないけど見慣れた顔がまた銀行のなかに入ってきた。

 校長が小さく声をあげ腕を縮めてその人を指差していた。

 俺が話はじめるより早く校長の唇が――戸村さん、という動きをした。

 戸村さんはここからは少し離れているけど校長の真正面画の位置で止まり、校長のいるほうへ向き直した。

 

 「……」

 「えっと、あの私、寄白繰です」

 校長は身を乗り出して戸村さんのほうへと近づいていく。

 このパターンはまさか。

 「……」

 戸村さんは無言のままなにも応えない。

 でも校長のことは知ってはいる・・・・・・はずだ。

 「……」

 「あの戸村さん。で、す、よね?」

 「……」

 「あの、私なにか……失礼なことでも」

 「いえ。繰さんはなにも悪くありません」

 戸村さんは校長の名を口にしながらもいまだ会話の距離が縮まないみたいだ。

 「良かった。私のこともう忘れちゃったのかと思いました」

 「いえ。忘れるとか忘れないとかの問題ではなく」

 「えっ? は、はぁ……」

 このパターンはたぶん、そうだろうな。

 戸村さんの服ってさっきと同じだし。

 「繰さんは私の顔を見て私のことを戸村さん呼びました」 

 「はい。そうですけど。違いますか? 戸村さんじゃない?」

 「いいえ。私は戸村です」

 「で、ですよね。ほら一緒にパンケーキ食べたりしましたよね?」

 「いいえ。食べていません」

 「え?」

 「繰さん、すみません。多少、割愛させていだきますけど私は繰さんと一緒にパンケーキを食べたこともありませんし。会ったこともありません。今日が初対面です」

 「いったい、どういうことですか?」

 ここで俺が校長に真相を教えようとしたとき、校長は――あっと声をあげて自ら気づいたようだった。

 「そっか!! もしかしてお姉さんのほう」

 「はい」

 「すみませんでした。人違いじゃないけど、人違いでした」

 校長が両手を前にして頭を下げている。

 「いいえ。なんというか。いま令ちゃんから応援を頼まれて」

 「れいちゃん?」

 「はい。検美石令。警察の娘です」

 そっか。

 検美石さん班長さんの指示で戸村さんを呼びに行ったのか。

 「ああ、なるほど、お仕事でここに」

 「はい」

 「私、邪魔してしまって申し訳ありません」

 校長がまた深々と頭を下げた。

 「いえ」

 戸村さん他にも校長に言いたいことがあったんだろうけど、校長に必要最低限のことだけ返したみたいだった。

 班長さんが戸村さんを手招きしている。

 そこで初めてここにいるみんなも戸村さんが警察の仲間だと気付いたみたいだった。

 一般人としてまた別の警察がきたんだからそれは安心するよな。

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