第428話 異変


――六角市 南町の南南東に位置する守護山の一画。 

 

 レッドリストの保護区域からひと山を挟んだ場所でフード付きの黒いローブの者が眼下にある田畑を見下ろしていた。

 すでに薄暗くなっていて人の肉眼では道と田畑の境目もわからない。

 フード付きの黒いローブの者は木々に紛れその存在感を消しながら、ただその場に立っている。

 山と混然一体となっているフード付きの黒いローブの者の肩に時折、鳥たちが止まり羽を休める。

 鳥にとってはそれは枝木と同じだった。

 田畑の周囲にはその自然と似つかわしくないソーラーパネルの群れがある。

 夜の帳が下りたいまはもう、陽光を集めることはない。

 (保護区域は防衛省のやつらがいる……)

 木々の茂みがガサゴソと音を立てて揺れた。

 草と草のあいだから鋭い眼光がフード付きの黒いローブの者をのぞいていた。

 フード付きの黒いローブの者は振り返ることもしない。

 「弔い合戦か?」

 一匹の熊が草を掻き分け体を揺らしながらフード付きの黒いローブの者に近づき威嚇してきた。

 フード付きの黒いローブの者はクルリと振り返る。

 急に動いた足場えだに驚き鳥たちはバサバサと音を立て飛び立っていった。

 

 フード付きの黒いローブの者はわざとらしく首を傾げる。

 フードの中のブラックホールに似た渦も一緒に傾く。

 

 グルグルと回る渦に熊が目を回しそうになっている。

 それでも牙を剥き出しフード付きの黒いローブの者を睨む。

 「人の世界には痛みを覚えるたび誰かに優しくなれるなんて美辞麗句きれいごとがある。でも痛みを与えた者には同じように痛みを与えたいと思わないか? そうやって歴史は作られたんだから。これからもそうやって歴史の階層は重なっていく。重層累進クロニクル悲嘆グリーフ。ああこれは世界が統一したい名称なまえか。この国では歴史の罪と呼ぶ。歴史とはいわば山積した苦痛のこと。歴史とは一日一日の積み重ね」

 熊はフード付きの黒いローブの者に近づけず攻めあぐねていた。

 「つまりはオマエが感じた苦しみも歴史の罪に内包されるんだ。だからオマエにも俺を殺す資格はある。ああ、それともあのおやことは無関係か?」

 フードの中で渦巻いているブラックホールに似た渦を凝視していた熊は、急に体の力を抜き後ずさっていった。

 「俺との力の差を測れるのは賢いことだ。みすみす死ぬこともない。もっとも俺だってどうしてもおまえを殺したいわけじゃない。ただ邪魔をするならそれはそれで障害でしかないけどな」

 熊はフード付きの黒いローブの者に背を向けることもせずにじょじょに後退していく。

 やがてその体は木々や草に埋もれ見えなくなった。

 (たった三十万人の街にだって盗む者、騙す者、企む者、犯す者、虐げる者がいる。なにげない日々を生きる者の合間に悪しき者たちが蠢いている。関連する負力は微々たるものながら歴史の罪にカウントされる。塵は積もり山となり、世界中の負力の集合体となりやがて終末時計の秒針を動かす。秒針はついに分針を動かし時針をも動かす。それがカタストロフィーの始まりだ)

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 ――外務省。

 北庁舎、南庁舎、新庁舎、中央庁舎

 どの庁舎にも属さない外務省の建物の地下の一室に【新約死海写本】が保管されていた。

 外務省の職員でも関係者だけが知る「新死海文書保管室」だ。

 一枚一枚密閉されている【新約死海写本】のなかでも最重要視されている一枚があった。

 【殺戮の魔王。戴冠たいかん間近】という【新約死海写本】。

 【新約死海写本】は昼夜問わず二十四時間監視されて担当職員たちは異変に備えていた。


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【殺戮の魔王。戴冠たいかん

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 「こ、これ色が変わってますけど?」

 「い、色どころじゃなくて”間近”の文字が消えてるだろ?」 

 「そ、それって魔王が現れたってことですよね?」

 「そ、そういうことだろうな」

 「す、すぐに局長に報告しないと」

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 草を掻き分けて全速力で駆けてきた熊がフード付きの黒いローブの者に飛び掛かかっていった。

 いったん引き下がったはずの熊は己のすべての力を込めてフード付きの黒いローブの者に体当たりした。

 「俺に殺されたおやこの身内ならオマエがしたことは揺るぎない正義だ」

 ――どすん。と鈍い音を立ててフード付きの黒いローブの者が跳ね飛ばされていった。

 フード付きの黒いローブの者は木々を押し退けて地面に倒れる。

 熊は間髪入れずにフード付きの黒いローブの者に覆いかぶさり右手の蹄を振りかざした。

 ためらうことなく勢いよく振りおろす。

 

 ――ゴキッとバキッの中間の音がした。

 人間の体をいとも簡単に挫滅させる熊の一撃はただ己の右手をフード付きの黒いローブの者に吹き飛ばされたに過ぎなかった。

 熊の右腕は蹄ごとくるくる回転しながら草むらに消えていった。

 木々の奥でいっせいに鳥が飛び立つ。

 この争いの巻き込まれないようにと鳥の大群は闇夜に消えた。

 「それがオマエの選択か?」

 フード付きの黒いローブの者は人の関節では動くことのできない動作で立ち上がる。

 熊は肩より先の腕を失くし涎を垂らしながら悶えていた。

 「障害になるならそれは排除するしかない。オマエがとったのは間違いなく正義・・行動おこないだ。それで死ぬしか道がないなんて無慈悲だな。俺にはオマエら、いや、守護山に棲息む動物に対しての同情心くらいあるさ。田畑の近くにまでソーラーパネルを設置てる人間がいるんだからな。それはつまり生息地域の破壊ってことだよな? 住処を追われてなければ俺に会うこともなかったかもしれない。オマエとも。オマエの家族も」

 {{災禍カラミティーアロー}}

 フード付きの黒いローブの者のブラックホールの中から真黒なクロスボウが現れた。

 「同情もするけど。俺の邪魔もするな」

 クロスボウからまるで散弾銃のように無数の矢が放たれる。

 放たれた矢の数だけドスドスと音がした。

 かつてひとつの個体だったものは血の臭いを放つ細かな肉片になっていた。

 体毛がついたままの肉の塊に一羽の鳥が食いつく。

 一羽、また一羽と鳥がこの場所に舞い戻ってきた。

 (この世界はずっとこうだった。ウスマのいたあの戦場もそうだった。抗うことができない弱き者は常に強者に踏みつけられる)

 フード付きの黒いローブの者は矢によって開かれた木々のあいだから夜空を見上げた。

 UFOのような光の集合体が夜空の奥に浮遊していた。

 その存在たちは空ではなく空のもっと・・・向こうにいて無数の点滅が下界を見下ろしていた。

 生物と呼ぶには意志はなく、機械と呼ぶには形がない。

 (記録ってるんだろ? X(並走)軸を正規化した場合、この世界を正真正銘オーセンティック判定してくれるんだろうな)

 フード付きの黒いローブの者の手のひらに小さな水晶の髑髏が転がっている。

 (前タームで壊し損ねた世界。【終焉おわり開始はじまり】とはカタストロフィーと同義。しょせんオリジナル・シンげんざいを抱えた人間にどうこうできるものではない)

第七章 END