己己己己はしゃがみながらとY-LABの駐車場の脇に咲いていた花に触れた。
まるで葡萄の房が地面から伸びているような紫の花は夜風に揺れている。
「六角市でもこの花が……」
「その花がなにか?」
寄白の父はなんの変哲のない花に足を止めた己己己己を不思議そうに見ている。
「ふつうの花ですけど……。一般的な名称はムスカリ、ただ」
「ただ……?」
「日本中で、いや世界のいたるところで量を増やしています。他にもセイヨウノコギリソウ、ノボロギグ、ヤグルマギクという花の総量が増えているという調査結果があります」
「そういえばうちの娘、ああ、次女のほうなんですけど。六角ガーデンでそれらの花が多かったと言っていました」
「植物園は花を観覧るための場所ですからね」
「妖花となにか関係があるんですか?」
「いえ。これは一般的な花ですから」
「そうですか。アヤカシとも関係はないのですか?」
「え、ああ、はい、それも関連はないと思います」
「六角ガーデンにアヤカシが出たのでなにか関連があるのかと」
「アヤカシが? アヤカシの種類は?」
己己己己はムスカリから手をはなした。
立ち上がった視線の先でスクラブを着た看護師があたりを見回していた。
誰かを探している挙動をみせたまま己己己己の視界から消えた。
「リビングデッドです」
「リビングデッド、ですか?」
「はい」
「欧米の種ですね」
「そうです」
「関係ない、といいたいところですが、広義の意味では関係はあるでしょう」
「広義?」
「はい。このグーバル化したいま、その土地土地で固有種だったものが世界のどこに出ててもおかしくはない」
「それは鋳型の生成に国の影響が少なくなっているということですか?」
「そうです。それはアヤカシだけじゃなく忌具や魔障もそうです」
「たしかに人の行き来や、体感的な治安、気候の悪化が著しいですからね。負力の放出量が増えればおのずとそうなりますか」
「国内でも地域の境目をこえてくるのはまず間違いないでしょう」
「それってフォークロア型のことですか?」
「はい。例えば海水温が上がればその種の魚は北上してくる。同じように南国のアヤカシの生息地も拡大してくる。厳密は高緯度で南国のアヤカシの鋳型が生成される。もちろん経度の位置も変化してくるでしょう」
「いずれ雪女、雪ん子のような種族がレッドリスト入りすることもありえると?」
「本州に雪が降らないなんことにでもなれば。ありえるかもしれません。逆にもっと凶悪な雪女、つまり初期段階からフォークロア型の能力を備えた種に置き換わり南下してくるということにもなりかねません」
「なるほど。種の存続はわれわれ人間が手出しできる領域でないですし」
「あのこれを」
己己己己がスマートフォンを操作し、寄白の父に画面を見せた。
赤いストレートのロングヘアに赤い着物をまとい、さらに真っ赤な帯をした女の全身が映っている。
「これは? 人間ではないですね?」
「ええ」
「前の赴任地で出現したアヤカシです。近々、新種と認定されるでしょう。レッドリストで絶滅に近い種もいれば、あらたな種として誕生する者もいる。このアヤカシは”焔女”という名がつきました。外見は雪女そっくりですが、性質はまったく別者。連続不審火がつづき犯人が捕まっていないケースならこの焔女が該当するかもしれません。アヤカシのランクとしては下級で登録されるそうですが暴力的な負力の要素が強まれば中級に格上げなんてこともありえるかと」
「わたしの知らないところでこんなことがおこっていたなんて。六角市で暮らしていたのではなかなか知りえない情報です」
「日本も広いですから。ただ日本当局はアヤカシ対策について双生市を重要視しているようですけど」
「双生市ですか? なんとなく隣の市に負けてくやしいのですが」
「六角市を中心とした場合にその周辺都市、つまり隣の双生市が重要な役割を果たすということじゃないでしょうか?」
「あくまで本丸は六角市ということですか?」
「はい」
「そういう考えかたもありますね。なんだか戦国時代のようですね。殿のいる城を守るなら、その前の城が重要だみたいな」
「このY-LABや国立六角病院がある時点でそういうことじゃないですか?」
「基本的の六角市は守護山に囲まれていますから、隣の双生市の守備を固めるというのは理に適ってますね。まあ、それでも植物なら地域を跨ぎ簡単に入ってきてしまいますね」
「私の想像なのですがこの花はもしかするとリトマス試験紙のような役割をもっているのではと」
「いったいなにを測るんですか? 負力値ですか?」
「私たちのなかでも共通認識とされるカタストロフィーのはじまり」
「カタストロフィーなんて日本当局でも世界各国でも確実に起こるという報告はないはずですが?」
「日本でもいつかは大きな地震が確実におこるとされている。でもそれがいつかはわからない。それと同じことです」
視線の先で、またスクラブを着た看護師が姿を見せた。
「カタストロフィーの前段階現象がアンゴルモアの発露だったのではないでしょうか? あの日がカタストロフィーのプロローグだったのかもしれない」
己己己己は看護師のところにもうひとり看護師が合流したのを目撃した。
あとでやってきたのは脇に紙袋を挟んだ戸村だった。
「たしかに備えあれば憂いなしですけどね。アンゴルモアのことなら魔獣医の子子子先生のほうが詳しいですよ」
「子子子先生、なぜですか?」
「彼はあの日、地上で指揮を執っていた」
「え?」
「アンゴルモア討伐の一条くん、二条くん、ハン・ホユルは有名ですけど、彼はああのとき雲の下いたんですよ」
「子子子先生はなぜ、なぜ、あんなことをしたんですか?」
寄白の父は己己己己が疑問の主題をいわずともすぐに理解した。
「もっと上の判断です」
「子子子先生も反対していたんですよ。そのあとは出世コースをはずれてようやく今回Y-LABに着任」
「そうだったんですか。私、なにも知らなくて」
「子子子先生どころかアンゴルモア討伐隊だった一条くん、二条くんだって反対していた。でも各国が手を取り合いアンゴルモアを退治したという名目がほしかった。だからバラバラなパーツにして各国に割り振った」
「……あれ以来、確実に妖花は増えました。つまりは世界の負力そのものが増えたんです。それに日々増していく人の不安、先の見えない未来、顕在化してきた紛争と暴力」
戸村が申し訳なそうに寄白の父と己己己己のもとへやってきた。
「すみません。只野先生ラボのほうにいらっしゃらないですか?」
「只野先生? Y-LABのなかにはいると思うけど。あ、戸村さん、こちら妖花研究者の己己己己咲さん」
寄白の父が己己己己を紹介したあとに戸村に手ひらを向けた。
「こちらは魔障専門看護師の戸村依織さん」
己己己己と戸村が互いに挨拶を交わす。
「妖花研究者。すみませんけどこの画像を見てもらえますか?」
「え、あ、はい。いいですけど」
戸村が脇に抱えていた紙袋から数枚の写真をだした。
「暗いですね」
戸村が街頭のある位置を探っている。
「あ、大丈夫です」
己己己己がスマートフォンのライトをつけて写真を照した。
手元で明かりの位置を調整し、ちょうどいい角度で写真を照らす。
写真には性別の不明の人間の顔がある。
顔の右半分はボコボコに腫れていて、左はのっぺらぼうのように何もなくなっていた。
球体をいくつも重ねたような腫れのなかにみっつの穴があって、小さな穴がふたつ横に並んでいる。
ふたつの穴の下に大きな穴があいていて、そのなかに顔の皮膚があり、またみっつの穴があいている。
「これ人面瘡ですね」
いっけん畑違いでありそうな妖花研究の己己己己が答えた。
「はい」
応答した戸村を横目に寄白の父が驚いている。
「己己己己先生どうしてそれを?」
「人面瘡の元になる種は妖花の領域でもあるからです」
「そうなんですか?」
「はい」
戸村はそんなことは当然だとでもいうように――それで、と話を進める。
「これはドイツの病院から只野先生に意見を訊きたいとデジタルデータとして送られてきたものです。これじたいは国立六角病院でプリントアウトしました」
「これは二重発芽です」
「あーなるほど。こんなに侵襲した人面瘡はめずらしいと思ったので」
戸村が驚嘆している。
「これどういう状態なんですか?」
寄白の父は目を細めて写真を見ている。
「ひとつめの人面瘡の口のなかで、もうひとつの人面瘡が発芽したんです」
「ああ、だからこんなふうに」
「はい。二重発芽とはあくまで複数の種を示すもので、第三顔面、第四顔面が皮膚の下に埋まっていることもあります」
「この顔の右半分の浮腫」
「おそらく」
「三の種、四の種もありそうですね。己己己己先生。この写真だけでよく気づきましたね?」
「経験によるものです。すぐ魔障診療医の指示を仰ぐべきです」
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