第436話 窮地(きゅうち)


右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の長い舌が波状にうねっている。

 右上の一本目の手の手のひらにはすでに泥がある。

 

 まだ目を逸らすな。

 泥の数を把握するんだ。

 右下の二本目の手のひらにも泥を持っている。

 左手はどうだ? まだか?

 きた、右手の二本の腕が同時に泥を投げてきた。

 コントロールがいい。

 どっちの泥も俺の真正面に飛んできた。

 

 とりあえず躱すか。

 俺は体を屈め真正面に飛んできた泥をやりすごした。

 「さわわらし。顔、よけろ!?」

 なっ? 速い。

 うそ、顔の前に泥、左によけるか、右か?

 

 痛っ。

 危ねー。

 左頬を触ってみると指先に血がついた。

 泥が俺の左頬をかすめていったんだ。

 頬っぺたが切れてる。

 右か左どっちによけるか迷っていたせいだ。

 ちょっとの迷いが命取りになるな。

 あいつ右のふたつの手のなかにある泥を投げたあと、時間差で左手から泥を投げてきたんだ。

 賢くなってる。

 こいつ本当に下級アヤカシなのか? そもそも同じ種類なのにここまで体型が違うアヤカシがいるのか? 目の数や腕の本数から考えてもとても同じに括っていいレベルじゃないと思う。

 こういのって魔獣医が専門なんだよな。

 

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の舌からじゅるじゅるとなにかを啜るような音がしている。

 舌の先から唾液つば? かなにわからないけど液体が飛び散った。

 右上の一本目の手にある泥の上を舌が行ったり来たりする。

 「さだわらし。そいつ唾液で泥をコーティングしてるみたいだ」

 「だからあんなに速く泥がとんできたんだ」

 それに頬の切り傷、ふつうの泥よりも硬くなってる。

 丸めた泥といってもきれいな球体になるわけじゃない、一部が尖っていたり反対に凹んでいたりと凹凸がある。

 泥の塊のなかの突起部分が俺の頬を裂いていった。

 

 「もう簡単に叩き落とせるような泥じゃないかもしれない」

 

 「わかってる」

 俺は身を以て知ってる。

 つぎから泥に触ることもやめないと。

 頬っぺたを掠っていったかんじでも泥がより武器化されていた。

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊がいまも泥を舐め回している。

 ときにはカメレオンの舌先のように泥を包み込んでいた。

 え?

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の舌が急激に伸びてきた。

 どんだけ伸びるんだこの舌。

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の舌は俺の真横を弧を描いて大きく旋回していった。

 この舌に触れるも危険が気がする。

 

 舌の軌道から目を逸らすな、同時にあいつの左右の腕の泥からも目を離すな。

 伸びきった舌は伸ばしたメジャーからいっきに手を放したようにしゅるしゅると泥田坊の口元に戻っていった。

 威嚇か?

 舌先でまた泥を舐める。

 水分を含んだからなのかそうとう硬くなってる気がする。

 

 寄白さんのエネミーと呼ぶ声がした。

 「美子ー!? ビビッて田んぼ落ちたアル」

 寄白さんの後ろに隠れていたはずのエネミーがまた畦道の法面と土のあいだに嵌っていた。

 でもこればっかりはしょうがない。

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の舌の長さに驚いたんだ。

 寄白さんがエネミーをなんなく持ち上げ救出した。

 「美子。助かったアル」

 「さだわらし」

 

 寄白さんの言いたいことはわかる。

 俺と寄白さんはエネミーをあいだにおいて背中合わせの態勢にした。

 

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊はいまだ泥を舐めている。

 泥田坊の一つしかない目が俺たちから視線を外した。

 どこを見てる? なにを見てる? 視線をはずしたと見せかけてノーモーションで投げてくるか?

 俺は少し後ずさって背を向けたままエネミーに呼びかける。

 「エネミー」

 「なにアルか?」

 「思い出せ」

 「だからなにアル?」

 「みんなでカラオケに行ってそのあとに六角第一高校いちこうの四階に行っただろ?」

 「行ったアルな」

 「そのときエネミー自分の能力を使ったよな? あのときちょと浮いてただろ?」

 「飛翔能力アルな。でもうちは劣等能力者ダンパーアルよ」

 「劣等能力者ダンパーでもなんでもいい。いま地面から浮いていればつぎに驚いても田んぼに落ちることはない」

 「はぅ!?」

 なんだよ、その世紀の発見みたいな顔。

 やべ、つい気をとられて後ろを振り向いてしまった。

 前は? あいつはまだ別のところ見ている。

 「沙田。その手があったアル」

 「気づくの遅せーよ。自分の能力だろ? この機会にもっと高く浮けるように実践あるのみ」

 「やってみるアル」

 「やればできる。というかあのときだってちょっとだけど確実に浮いてた。できないわけがない。エネミーも立派な能力者だ」

 エネミーに話しかけながらも俺は右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊の動きは完全に把握してる。

 いまだにあいつはどこかを見ている。

 ついにコーティングされた泥を握りしめた。

 投げてくるか?

 俺も右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊が見ている場所を見ていると田んぼの中で微かに動いているなにかがいることがわかった。

 暗闇で蠢ていたものがこっちに近づいてくる。

 じょじょにだけど確実に迫ってくる。

 くそっ、最悪だ。

 俺たちにとっての窮地。

 あいつら……。

 今度は目も鼻も口もない、ただ頭と手と足がある泥田坊が五体いた。

 本当の泥の人形。

 一体一体の体格は成人の男なみの大きさ。

 子どもが粘土で作ったような五体の泥田坊が田んぼの中をべちゃべちゃと足を音を立てて歩いていた。

 進行速度はそれほどでもない。

 問題は数だ。

 全部で六体だ。

 右の腕が二本あって左の腕が一本の一つ目泥田坊は仲間のほうを見てたのか? もしかしてこいつがあの五体の先導者なのか。

 寄白さんはまだ五体の泥田坊にきづいてない。

 別の暗闇を見ている。

 まさか、そっちにも別の泥田坊がいるんじゃないよな? そうなったら少なくともこの田んぼに七体のいろんな泥田坊がいるってことになる。

 

 いや、考えすぎだ。

 寄白さんはいまだ手ぶら、つまり十字架のイヤリングを手にしてない。

 あっちにも泥田坊がいるとするなら前もって戦闘に備えているはず。