第439話 牛と豚と鶏と羊の神


――六角市 南町の南南東に位置する守護山の一画。 

 フード付きの黒いローブの者は背後から物音が聞こえても動じずに、木々のあいだからいまだに山の麓を見つめていた。

 眼下のさきには広大な田畑が広がっていて、何人かの人間が暗い田んぼのを動き回っている。

 フード付きの黒いローブの者は視線を右四十五度の方向へ傾けた。

 フード付きの黒いローブの者へとじょじょに近づく音。

 フード付きの黒いローブの者は振り返ることもない。

 ザザっと草木を掻き分けるようにしてフード付きの黒いローブの者の背後一メートルで音は止まった。

 

 「ウスマ」

 「はい」

 「ああ、それはジビエ

 ウスマは青いマントごと血肉の跡を避けながらさらにフード付きの黒いローブの者へと歩みを進めていく。

 「ウスマ。その熊は己の肉体を鳥たちに振舞ってやったんだ」

 「承知いたしました」

 ウスマはフード付きの黒いローブの者の右後ろ斜めの位置で止まった。

 「死してなお利他的だろ?」

 「おっしゃるとおりです」

 「おまえがいた戦場を思い出さないか?」

 ウスマにとってこの血と肉の破片が散らばる光景はかつての日常だった。

 この山の木々と同じように死体が自生していた。

 

 「はい」

 「この山にいる熊や猪なんでもいいからあと二十匹狩ってこい」

 「はい」

 とつぜん話の脈絡が変わってもウスマはそのまま受け入れる。

 真意なんてものを探ったところで、主に対する思いはなにもかわらない。

 「ウスマ。人は簡単に殺すのに動物には優しいな?」

 「どういうことでしょうか?」

 「おまえがいま――はいと答えるまでの刹那に逡巡があった」

 「いえ、それは誤解です」

 「いいんだよ、それで。おまえはおまえのままでいい。俺がおまえを転生に導いたのは俺にとっておまえが必要だったからだ」

 「殺す人間は選んでいます」

 「動物のほうが生きる価値があるってことか?」

 「いいえ。人でも生かす者と生かさざる者がいるということです。あのFOXを生み出したグリムリーパー、その一族の末裔モルスを殺せたのはあなた様のおかげです」

 「あのあとにおまえはいったよな? モルスを殺しても世界はなにも変わらなかった、と」

 「はい」

 「ほかの軍需企業も潰すか?」

 「いえ、おそらくそれでもなにも変わらないと思います」

 「じゃあどうする?」

 「あなた様の望むままに。わたし程度ではなんの妙案は思いつきません。あなた様が他にも地獄があるといってこの国にきたとき不思議に思いました。なにもかも揃ったこの国のどこが地獄なのか? 天国の間違いではないのか? なぜこの国の人は胸を張って幸福だといえないのか? すこしは理解できました。たしかに別の意味では地獄です。それでもこの国に悲鳴の雨は降らない」

 「ウスマ。悲鳴の雨がこの国の頭上を通っていくのも間もなくかもしれないぞ」

 「それは日に日にかんじています」

 「この国にいれば飢えないとでも思うか?」

 「はい」

 「いいや。違うな。この国でも餓死する人間は存在している」

 「あなた様は、まさか。わたしを救ったようにこの国を」

 「ウスマ!!」

 フード付きの黒いローブの者が強く名前を呼んだ。

 「は、はい」

 ウスマは体をのけ反らせた。

 「俺がそんなに単純だと思ってるのか? 飢えで死ぬ人間を減らしたいとでも?」

 「い、いえ」

 「人の飢えを満たすものはなんだ。まあ、その問答といはどうだっていい。しばらくのち、ここにくる者がいる。相手をせよ」

 「は」

 フード付きの黒いローブの者の仮面の半分より上にあるブラックホールの中から真っ黒な壺が出てきた。

 壺の左右には人の指の骨のようなものが絡みついていて壺の表面には何人もの苦悶の表情が浮かび上がっている。

 フード付きの黒いローブの者は壺を手のひらで包むようにして持っている。

 「おまえが断るから自分で狩るしかない」

 「どうか。お許しください」

 「いや。いい。きっとおまえは牛と豚と鶏と羊の神なんだよ」

 「え?」

 「ああ、神様。わたしの躯体からだを、わたしの親の躯体からだ

わたしの兄の躯体からだを、わたしの姉の躯体からだを、わたしの子どもの体躯からだ切り刻み食す人間あいつらにどうか罰を与えください。どうか神様。人間あいつらに恐怖と苦痛と絶望を与えてくださいってな。おまえは牛と豚と鶏と羊かれらの願いを成就させる神。ゴミみたいに存在する価値もない人間だけを選んで殺せばいい」

 「神。めっそうもございません。わたしにはあなたのような能力はありません」

 「人間あいつらはよく経済動物どうぶつに対して命を頂くって表現をするんだよ。残すことは失礼だから骨も皮も余すことなく食べますってな。珍味だと大義名分をつけ目でも、鼻でも、耳でも、尾でも、骨でも、皮でもなんでも食す。でも自分たちだけは身内の死に対して五体満足できれいな遺骸からだを望む。切り刻まれて死んでいく牛と豚と鶏と羊たちは形さえ残らないのにな?」

 「おっしゃるとおりです。わたしもきれいなマリアを望みました。わたしもいまだ妹の手に守られたままです」

 「おまえの苦悩はいつか晴れるのか?」

 「どうでしょうか?」

  「牛の親は血痕だけを残して消えた子どもと前足だけを失った子どもの遺体どちらを望む? 豚の親は血痕だけを残して消えた子どもと、後ろ足だけを失った子どもの遺体どちらを望む? 鶏の親は血痕だけを残して消えた子どもと、羽だけを失った子どもの遺体どちらを望む? 羊の親は血痕だけを残して消えた子どもと、尻尾だけを失った子どもの遺体どちらを望む? 愛しい我が子ならば肉体体積からだはあればあるほどいいはずだ」

 「返す言葉もありません。あなた様の目的はいったい? 人間を滅ぼしたいのですか?」

 「まさか。おまえはすぐ極論に振れるな。いままさに飢えた人間が、屠殺しょくじに手を伸ばしたとき。牛と豚と鶏と羊の神、このときおまえが罰するのはどっちだ?」

 「そ、それは人でございます」

 「飢えた人でもか?」

 「はい」

 「女の幼子おさなごでもか」

 ウスマの脳裏に浮かぶのは、あの勝気な眼差し。

 「あ、いえ、どちらでしょうか? わたしには答えは見つかりません」

 「俺はさ、止まった振り子があれば右から衝撃と与えて動かす。つぎに振り子が止まれば左から衝撃を与えて動かす。ただそれだけ。そして俺の行動を邪魔するなら人間でも動物でもアヤカシでもなんだって殺す。飢えた人間でも、震えた動物でもな」

 「は、はい……」

 「ウスマおまえでも、ツソンでもリダでもな」

 「承知しました」

 「おかしいと思うか?」

 「いいえ。まったく」

 「なぜだ?」

 「燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくこころざしらんや、で、ございます。わたしのようなものではあなた様の心内など計るすべはありません」

 「牛と豚と鶏と羊の神よ? これから動物を殺しにいく俺を止めなくていいのか?」

 「はい」

 「なぜだ?」

 「あなた様とってそれ・・が必要な行為だからです。その魔壺まこを使いなにかの目的を果たそうとしています。わたしが殺す人間を選ぶようにあなた様も殺す動物を選ぶ、ただそれだけのことです」

 「ウスマ。俺のこの言動と行動を支離滅裂というんだ」

 「か、かしこまりました」

 「牛豚鶏羊ぎゅうとんけいよう

 「ぎゅうとうんけいよう、ですか?」

 「この街の六角神社にいるやしろみそぎ。彼の能力は付喪師つくもし。文字に念を込めることができる」

 「そ、それがなにか? あ、いえ、出過ぎた真似をしました」

 「牛の怨みと、豚の怨みと、鶏の怨みと、羊の怨み。おもしろい。そろそろいくか。ウスマ。右をいくつ、左をいくつだ?」

 フード付きの黒いローブの者は手の上の壺をウスマに向かってわずかに傾けた。

 「取っ手のことでございますか?」

 「そうだ。この忌具魔壺まこの一種である。百年ひゃくねん蟲毒こどく。余興につきあえ」

 「かしこまりした。では右を二、左を一で」

 フード付きの黒いローブの者が両手を広げると百年ひゃくねん蟲毒こどくが宙に浮いていた。

 フード付きの黒いローブの者は百年ひゃくねん蟲毒こどく

の右の取っ手にある二本の指の骨をもぎ、左の指の骨を一本もぎ取る。

 自分の手のなかで指を粉々に砕き、壺のなかへさらさらと落ちる砂時計の砂のように入れていく。

 {{世界でいちばん孤独なソリチュード蟲毒カニバリズム}}

 「じゃあ、最初の獲物は猪にするか。ウスマ、あとすこしでくるぞ」

 「はは」

 ウスマは片足を立て跪き青いマントを翻し首を垂れた。

 「おまえが俺のうしろを歩いてきたとき、指先ほどの小さな黒い龍が俺の前の前を横切っていった」

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