第380話 追憶のマリア


 モルスは負傷している利き手とは反対の手でワインボトルを鷲掴みにした。

 黄ばんだ歯でかぶりつくようにコルクを噛む。

 左手以外は不自由で歯に力を込めているのがよくわかる。

 上下の歯の先でコルクをグイグイと二、三回引っ張るとポンっとコルクが外れた。

 そのまま――ペッっとコルクを勢いよく吐き出した。

 くっきりと歯型のついたコルクは人だった物の中に埋もれていった。

 「このワイン何年寝かせてたと思ってんだよ。飲まずに死ねるかってんだ。この傷だらけの体じゃデキャンタージュできねーけど、しょうがーねか。あん? 眩暈?」

 モルスは高価なワインをラッパ安く飲みながら辺りを見回した。

 「酒と麻酔クスリの影響じゃねーようだな。傾いてる。平衡感覚もイカれちまった俺でもわかる。もしかしてこの船沈んでるのか?」

 /さあな/

 「船ごと沈められてるのか? おお、怖えー。グリムリーパー関係者おれたちは死んでも発見されないってか? 闘争に負けた海賊船かよ。こんなことなら金貨でも積んどくんだったな。いつか難破船ふねを見つけたやつはラッキーだろ?」 

 「この船が誰かに発見みつかることはない。ジーランディアごみばこ行きだからな。ジーランディアごみばこに自然に流れ込む海流はない」

 「どういう意味だそりゃ? 広い海だ、いつか誰かに発見されることもあるだろうよ。そのためにこの使い物にならねー右手は手鈎てかぎにでもしておくか。俺が船長だって一発でわかるだろ? おっと目は潰さねーでくれよ。眼帯なんて見えててもできるんだから。でもおまえは人を嬲るのが好きそうだ。この両目も持ってくか?」

 船内に小さなバイブレーションのような羽音が響いてきた。

 「ラリっちまった俺は幻聴まで聞こえてくるようなったっ、てか。あっ!?」

 幼稚園児ほどの体格の魔獣型妖精がガラガラと荷車を押してきた。

 「なんだそいつ? もう少し小さいのは見たことある。いろんなサイズのがいるもんだ」

 「ここまで持ってこい」

 ウスマは妖精を一瞥することもない。

 従順な妖精はウスマの命令に従って台車を妖刀とウスマの間まで運んできた。

 荷車には大人ひとりが入れるくらいのますのような木箱が乗っていてそこから両手と両足の先が脱力したままではみ出ていた。

 中にいる人は誰かに傷つけられた様子もなく、ただ体がくの字に折り畳まれているだけだった。

 ますのような木箱の中からゼーゼーと微かに人の呼吸音がしている。

 「誰だそれ? お、おい」

 「すべての始まりだよ」

 両手両足はかつて成人だったものが萎れたような皮膚のたるみとシミとシワがある。

 カサカサの皮膚からは粉が吹いていて手や足の爪も分厚く黄みがかっている。

 中にいる人物は相当な高齢だとわかる。

 「始まりだと? なにいってんだ」 

 モルスはふたたびワイン瓶に口をつけてワインを流し込んだ。

 瓶に映る黒い影でワインの残量を確認している。

 モルスの動きが止まると数秒の後、モルスの口の両端からワインがダボダボと零れはじめた。

 モルスはワインの瓶をカウンターテーブルに置きワインの赤と血の赤に塗れたシャツの袖で口を拭う。

 モルスはゆっくりとウスマに視線を移した。

 「お、おい。まさか。そういうことなのか?」

 モルスは焦点の定まらない目でますのような木箱の中の人物を見つめた。

 何かを感じとったモルスはお手上げのように片手を上げた。

 

 「ジジイは施設にいたはずだ。それにボケて何も覚えちゃいねー。今、自分がどこにいるかも自分が誰なのかももうわかんねーんだ? それをご丁寧にこんな船の中まで連れてきたってのか?」

 /おまえに披露みせるためにな/

 「ボケてるうえにもう永くないはず」

 ウスマはモルスを醒めた目で見ている。

 「その目。例え明日、寿命で死ぬとしても今日、殺すって目をしてる」

 {{拷問執行プロクルステスのベッド}}

 ますのような木箱から出ていた両手両足がぼとりと落ちた。

 中で人の呻き声とバタバタする音がしている。

 /俺の出番か/

 妖刀は自発的に刺さっていた床から抜けて宙に浮かんだ。

 ますのような木箱の真ん中を目掛けて先端からドスっと落ちていく。

 ますのような木箱の中で一度だけ人の叫びがした。

 

 /正確に息の根止めてやったぜ/

 「こいつの手足はもっと早くに斬り落とされるべきだったんだ。十年も、二十年も五十年も前に」

 床に落ちたモルスの祖父の両手は天井を向いていた。

 地獄絵図の「地獄」にただ添え物が増えただけで、すぐにその場に馴染み辺りに散乱しているかつて人だった物の一部になった。

 

 「その手がFOXを作る前に、な」

 ウスマはおもむろに立ちあがり妖刀に繋がったままの臍の緒のような線に触れた。

 呆然としているモルスはますのような木箱を見つめたままだ。

 すぐに目を見開き何かを察すると顔の表情を崩した。

 「こ、この状況。手と足だけを残して消えたおやじと同じ。あ、あれもおまえだったのか? 文字通りグリムリーパーうちの一家、一族、社員はみなごろしってことか? 俺らはまたとんでもねーやつの逆鱗に触れちまったわけだ」

 ウスマがパチンと指を鳴らした。

 「痛てぇぇぇぇぇぇぇぇ!! ああぁぁぁ!! 痛てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 「どんな傷だって痛いんだ。おまえはここで肉片を散らすのがちょうどいい」

 ウスマの最後通牒だ。

 「ま、麻酔を切りやっがたなああぁぁぁ!? 痛てぇぇぇぇぇぇぇぇ!! チクショー!! けどな死んだほうがゆっくり寝れるわ。バカがよ!! ああー痛てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 「おまえに安息など永遠にない」

 モルスは体全体を震わせながらワインの瓶をかろうじて掴んだ。

 すでに口元へと運ぶ力も気力もなくワインはバシャバシャとモルスの顔にかかった。

 モルスはワインを飲むことができずにただ浴びているだけだった。

 「痛てーけど、美味うめー。俺だってのんびり自分の好きな酒でも造って生きていたかったんだよ。くそがー。痛すぎる、早く殺せよー!!」

 「おまえが喚くその痛み、この数十年で何人が感じたと思ってるんだ?」

 ウスマは妖刀と繋がっている線を手繰り寄せた。 

 伸びきったメジャーから手を離したときのように勢いよくしゅるしゅると妖刀がウスマの手元に戻ってきた。

 ウスマは柄を握りしめるとそのままカウンターテーブルに飛び乗って妖刀を振り上げた。

 妖刀全体から紫の瘴気がブワっと放たれた。

 ウスマの感情に呼応したように瘴気の量が爆発的に増える。

 「二者択一だ」

 ウスマは禍々しくも神々しい紫色の瘴気を纏う妖刀を素早く振り下ろした。

 妖刀の刃先は一ミリもモルスに当たらなかった。

 

 ウスマは振り下ろした勢いを使い妖刀をさらに上に振り上げた。

 それは佐々木小次郎の燕返しと逆の軌道だ。

 モルスはもう言葉とも悲鳴ともわからない声を上げている。

 斬られたモルスの左腕は宙を舞い軽いダンベルを落としたようにドスっと床に落ちた。

 ウスマは占いのようにその表裏の答えを確かめる。

 モルスの腕の手のひらは上を向いていた。

 記憶の中のマリアと重なる。

 あの日、ウスマの前に立ちFOXをその身に受けた妹のマリアと。

 (また上か……)

 「俺はいつまでマリアに守られればいい?」

 ウスマはまた妖刀を振りかざすと妖刀の刃に紫の瘴気が螺旋状に巻きついてきた。

 呻いているモルスのわずかな口の隙間を針に糸を通すように狙って妖刀を突き刺した。

 剣先はモルスの口を貫き首の後ろから飛び出す。

 ウスマはその状態からさらに右、左へと妖刀を振り抜いた。 

 モルスの上唇から上の頭部が船内を舞ったとき船体は急速に斜めに傾きはじめた。 

 周囲におどろおどろしいフルートの音色が聞こえていた。

 ただの笛の音だったものはしだいに無数の亡者の手となり船全体を海底へと引き摺り込もうとしている。

 妖精の周囲にも数多の手が群がっていた。

 /ウスマ。早く脱出ないと俺らもモルスあいつと一緒に海の藻屑だぜ/

 「これでモルス一族とともにグリムリーパーも終わりだ」

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