六波羅は与捨から川相憐の写真を受け取り――つぎ、と三枚目の写真をめくった。
どこか周りを気にするのように写真の中央ではなく写真の端で佇んでいる若い男がいた。
物腰が柔らそうな純朴な青年はうつむき加減でレンズからも視線を逸らしている。
「この人は?」
「哀悼祈。漢字はこう書きます」
六波羅が運転席の裏にシートバックポケットからファイルをつまんだ。
「へー。哀悼さんね。聞いたことのない名前だな。これは誰なんだ?」
「黒杉工業の社員だった人です」
「だった人? 辞めたのか。だったら黒杉工業の労災隠しの件はこの人に訊けばいいんじゃないのか? 俺よりももっと詳しく労災のこと訊けるだろ?」
「それができなんですよ」
六波羅は額を搔きながらファイルをシートバックポケットに挿し戻した。
「なんで?」
「もう、この世にいないからです」
与捨は絶句し顔から血の気が引くのを感じる。
蒼褪めた顔で口を開けっぱなしだった。
「お、おい。それってこの男も飛び降りたってことか?」
「いいえ。彼は走行中の電車に飛び込みました」
「は!? おいおい。黒杉工業ってヤバいじゃねーか? 黒杉に関わる人間死にすぎだろ? しかも自殺ばっかり」
「六角中央警察署らはそれらを含めた真相を知りたいと思ってます」
「……けっきょく俺がいま話を訊かれてるのって黒杉工業の単純な労災隠しだけじゃないってことだよな」
与捨は自問とも疑問ともとれる言葉を吐いた。
六波羅が――そこを、と言ったのと与捨の――まあ、が重なる。
「だから警察が話を訊いてまわってるのか。それでこの男の遺書はなかったのか?」
「それが遺書を書くためにノートを欲しがっていたっていうコンビニ店員の証言があったにはあったんですけど結局発見にはいたらず」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てくれ」
与捨は六波羅を遮る。
「それってケーブルテレビでやってたコンビニ店員が話してた話じゃないのか?」
「はい。そうです。ご覧になられましたか?」
「見たもなにも。俺は六角市中央警察署の署長があの店員に感謝状渡してるのを見て署長は黒杉とゴルフしてるくせにって思って怒りが込み上げてきたんだよ。じゃあ、六角市中央警察署の署長はあの頃からすでに内偵を進めてたってのか?」
「すみません。さんざん話を訊かせていただきながら申し訳ないのですが、捜査の進捗状況についてはお答えできません」
「ああ。いいよ。いいよ。警察ってのはすごいな」
与捨の言葉は賛辞に等しかった。
「その後哀悼祈の家のどこを探しても遺書のようなものは見つからずでした」
「班長が最近、独断で室内の捜索を行ったんですよ」
検美石が補足する。
「俺たちの哀悼祈に対する捜査の動き出しが遅かったからです」
「班長さん、あんたも無茶するねー。じゃあ黒杉による証拠隠滅とかって話になるのか。それならこの哀悼って男は黒杉工業の社長に殺されたってことになるのかよ?」
「それはわかりません。なんせ黒杉太郎は黒杉工業の代表取締役社長として哀悼祈に香典を贈ってますから」
「なんだよ~」
与捨の声のトーンが上がった。
「驚かさないでくれよ刑事さん。香典を贈るくらいなら別に殺したとかじゃないんだろ」
「統計上、偽装工作を行う犯人が多いのも事実です。犯人の思考的には。香典を贈るくらいなんだから俺が殺すはずないだろうってことなんでしょうね」
六波羅は眉間にしわを寄せて真顔になった。
「警察が言うとやっぱり説得力があるな。じゃあ、結局殺されたってことか?」
「いいえ。これは捜査上あまり口外したくないのですが……」
六波羅は与捨の証言を得るために止む得ないと判断する。
「今回のケースの場合黒杉太郎が直接手をくだしたわけじゃありません。哀悼祈の行動範囲にある防犯カメラを全部調べましたけど哀悼祈が誰かと接触した形跡はありませんでした。×月八日、独りで映画を観にいき九日に列車に飛び込んだ。誰かに体を押されたということもなく本人の意志で自分から飛び込んでいました。哀悼祈は最期、何を想いながらその映画を観たのか」
「人が人生を終えようとするときにいつもとは違う行動をするということはよくあります。映画の内容でいうなら青春恋愛ストーリー。哀悼祈にとってその映画が特別なものだったのかもしれません。彼が心の底から望んでいたものが二時間だけのスクリーンの中にあった、とか。いまとなっては真相はわかりませんけど」
検美石が六波羅の話に説得力を持たせる。
「俺が独断で行った家宅捜索でも哀悼祈の家には他人が侵入した形跡はいっさいありませんでした。そのことからも自で死を選ばせるような恫喝や脅迫被害にあったという可能性も低いと思われます」
「なら、この彼も労災隠し被害で死を選んだ?」
感情の振り幅が大きく与捨の顔には疲労の色がうかがえた。
「可能性はゼロではないでしょう」
「でも刑事さん。俺はどうも腑に落ちない。労災が通らないだけで死を選ぶなんて考えられないよ。労災で得られるものは金銭的補償と休みだろ。映画を観れるほど五体満足なら命と引き換えにしてまで欲しいものじゃないだろ」
「俺も哀悼祈は労災は関係ないと思います。与捨さんの仰るとおり哀悼祈には目に見える体の不調はありません。ここ最近の通院歴もありませんでしたから。ですので哀悼祈の場合はパワハラのようなハラスメントで精神的に参ってしまった可能性ならあると思ってます」
「ああ。刑事さんうちに面接にきた人の話から考えてもそれはあり得る話だよ。この写真を見ても写真の端っこにいて物静かそうだもんな。いかにも権力者のターゲットになりそうだ」
「まあ、哀悼祈の件にこれといった裏付けはありませんけど。刑事の勘です」
「そっか。刑事ね」
与捨は検美石の横顔を見た。
検美石はこのことについてまったく口を挟む気はなさそうだった。
「ええ。刑事の。つぎです」
六波羅がつぎに裏返した写真には小柄で顔の整った可愛らしい女性が写っていた。
写真からも快活そうな雰囲気が見て取れる。
「この人に心当たりはありますか? 音無霞」
「ん? ああ、よく知ってるよ。この人なら」
検美石のペンが手が止まる。
六波羅の刑事発言さえ聞き流した検美石もさすがに反応を示した。
今回ばかりはルームミラー越しで後ろを確認するのではなく勢いよく振り返る。
「ほ、本当ですか?」