第422話 音無優志(おとなし ゆうじ)


 「あれからどう?」

 「霞のいなくなったこの世界にまだ希望は見いだせないけど、優がいるから死ななくていい理由にはなってるよ」

 ゆうじさんは作り笑顔をみせた。

 その表情の下にどれだけ辛い思いを隠してるのか。

 俺も寄白さんに間接的でしかないけどおおまかな話は聞いている。

 いまのゆうじさんにとっては”ゆうくん”がすべて。

 霞さんがいなくなってそんな簡単に立ち直れるわけがない。

 

 「優志ゆうじさん。この世界に希望なんて持たなくてもいいと思うよ」

 よ、寄白さんそれでいいの? ってまあ、無理に希望を持てって言って、さあ持つかってかんじで持てるものでもないし。

 霞さんは性犯罪の被害者で……そのあと……未練を抱えこの世界に留まってしまった。

 そして最後まで救われることはなかった。

 やっぱりゆうじさんにこの世界に希望を持てっていうほうが難しいな。

 「霞と結婚するとき苦しみも幸せも分かち合うってありきたりな宣誓をしたはずなのに……。僕たちは都合よく苦しみを半分ずつになんて割れなかった。霞のほうが辛い思いをしてた」

 ゆうじさんは悔しそうにしている。

 

 「結婚って幸せの象徴でしょ。だからその先に待つ苦しみになんて目を向けないと思うよ。みんな人生が平坦じゃないって知ってるはずなのにさ」

 「……たしかにね。将来こんなに辛いことが待ってるなんて思わなかったよ」

 「多くの人はそれに気づかないからふつうに過ごせるんだよ」

 多くの人は、か……。

 ゆうくんが寄白さんの腕のなかで寄白さんの耳で揺れるイヤリングに手を伸ばそうとしている。

 寄白さんは反射的に身を逸らしてさっと立ち上がった。

 とたん今度はエネミーに向かって――ダッ、ダッ、ダッ、ダッという声で手を伸ばす仕草をしている。

 エネミーはそれに気づくと椅子から立ちあがり、ゆうくんの前で制服のスカートを膝の裏に挟み屈んだ。

 ゆうくんがムニャムニャなにかを言っている。

 エネミーは摘まむようにしてゆうくんの手の先を握った。

 エネミーと寄白さんは自然な形で子守を交代した。

 ――小っちゃいアルな。

 寄白さんが霞さんに能力を使ったのはアヤカシを退治するため。

 そのときの霞さんはもう人間じゃなかったから。

 アヤカシの退治とはいわばアヤカシを殺す行為。

 そう、あの四階の人体模型のように寄白さんは霞さんをこの世界から消した。

 

 他でもないゆうくんのために。

 死後にこの世を彷徨う者は生者に負の影響を与えてしまう。

 じっさいエネミーだって同じような立場だ。

 

 ゆうくんは自分のお母さんがどうなったのか知らない。

 存在いる不在いないかの判断だってできない。

 

 霞さんが自ら消滅を受け入れたことをゆうくんは永遠に知ることはない。

 ゆうくんはたまたまお母さんと一緒にいた寄白さんのことを「ママ」といたお姉ちゃんくらいの意味で「ママ」って呼んだのかもしれない。

 俺には、いや、おそらくゆうじさんだってゆうくんの心を知る術はない。

 「たしかにね。未来が見えてしまえば未来に怯えて生きていかなければならないよね」

 「だからさ。どっちが辛かったのかの比率なんて関係ないと思うよ」

 「かもしれないけど……。僕にはどうしてもそう思えてしまうんだ」

 「……霞さん最期にも、また私と結婚してくれますかって言ってたじゃない?」

 「霞にあんなことを言わせるなんて……」

 寄白さんがゆうくんをチラ見した。

 「今日は優くんとお出かけ?」

 「そんな広い家じゃないんだけどちょっとずつ歩くようになって部屋の中じゃもう窮屈そうでさ。それに外に出るのも優のためになるかなって思って。ハイハイしてたときとは目線の高さが変わってとにかく歩きたがるんだ」

 「それで献血? 他に優くんを連れて行けるとこならいくらでもあるんじゃないの?」

 「まあ、じっさいのところの今日の外出の目的の第一位は献血だから」

 「献血が一位?」

 え、献血? 俺も寄白さんと同じところで驚く。

 それってワンシーズン効果なのか?

 「そう。緊急手術のときたくさん輸血してもらったからね」

 「あ、そっか」

 寄白さんが悪びれたようにうなずいた。

 ゆうじさんの献血にワンシーズンなんて関係なかったか。

 ゆうじさんはワンシーズンを飛び越え、人が献血する意味を俺に再確認させた。

 そもそもワンシーズンが自分たちの人気と知名度を使ってどうして人に献血を呼びかけるのか? 献血がなんのためにあるのか? アイドルが献血のCMをやってると売名だなんだって言われたりするけど結局、病気や事故で命の危機に瀕している人を助けるためじゃないか。

 「あんなことになって自分の周りから味方なんて誰ひとりいなくなったように思ってた。手術前に感染症の危険性とかいろいろ怖いことも言われたけど右の耳からすぐに左の耳に抜けていったよ。だって見知らぬ誰かが霞を助けようとしてくれてるような気がしたから。それもひとりじゃなくてたくさんの人たちがね」

 「優志ゆうじさん。それ私もちょっとだけ理解できるよ」

 「どういうこと?」

 「私も。みんなを可愛がってくれた年上のお兄ちゃんを亡くしたことがあるから」

 九久津の兄貴……。

 俺のなかにいるかもしれないこと、いつかは言わないといけないと思うけど。

 

 ―― 『ときがきたら君の力を貸してほしい』

 

 その「とき」しだいなんだよな。

 

 「美子ちゃんにもそんなことがあったんだ? 大事な人を亡くすっていうのは本当に本当に辛いよね」

 「うん」

 「だからあれ以来僕は定期的に献血にきてるんだ。最近だとアイドルの娘たちがCMをやってくれて嬉しいよ。もっともっと献血してくれる人が増えるといいな。その旗がそうだよね」

 ゆうじさんは啓清芒寒けいせいぼうかんの献血啓蒙活動のノボリ旗を指差した。

 ワンシーズンの宣伝も追い風になってるな~。

 CMを通してゆうじさんの耳にも届いてるんだから、そりゃ日本中に届くな。

 

 「霞さん。いまの優志ゆうじさんの行動を見たら大喜びじゃない」

 「買い被りすぎだよ。きみたちはここになにか用?」

 「どうしても献血したいって献血に目覚めた同級生がいてね。ちなみにその同級生以外は私も含め体質的に献血できないみたい。これだから現代っ子はダメだよね~」

 「貧血があったりすると献血はできないからね。体質なんだししょうがないよ。できる人がすればいいんだよ」

 「そう言ってもらえると献血できない罪悪感も薄れるよ」