九久津は軽く戸惑っていたみたいだけど、今はまたノートに向かっている。
そんな簡単に理解できるか?って俺の飲みこみの良さがひっかかったらしい。
なんだろう? けど、なんか俺の中にすーっと入ってきた。
上手く表現できないけどピアノを弾ける人がもし生まれ変わったとしても、案外簡単にピアノを弾けるんじゃないかって感覚に近い。
車内の客もだいぶ減ってきて、俺らの周りにはもう人はいない。
この席から何人かの後頭部が見えるけど、乗客の数はもう十人はきっているはずだ。
始発の六角駅から比べるとスゲー減ったな。
窓から外を見てもバスは華やかさとはほど遠い場所を走っている。
こんな郊外でも相変わらずソーラーパネルは多い。
資料を読んでるうちにこんなに時間が経過ってたんだと気づく、――キンコン、キンコン。どこからか音が鳴った。
『総理が緊急入院したために、急遽鷹司官房長官が会見をおこなう模様です』
運転席のうしろの防護柵の網目を利用して吊るしていた十八型の液晶テレビから
緊急速報が流れてきた。
低音で活舌の良いベテランのキャスターが原稿を読んでいる。
『それでは現場の画面に切り換えます』
キャスターは眉ひとつ動かさずになんとなく平常を繕ってるようにもみえた。
心の中で――またか? なんて思ってるのかもしれない。
なぜなら、だいぶすくなくなってきたはずの乗客からも不満がもれているからだ。
俺は自分の席ですこし腰を浮かせてみた。
おっ!?
腰の痛みが完全に治ってる。
俺は中腰のまま体をすこし捻じってテレビのほうへと姿勢を変えた。
「総理また入院?」
「そうみたいね」
「何回目かしら?」
「もう、三回目くらいじゃない」
俺にはよくわからないけど国内で大きな問題が起こると、この紳士的な鷹司官房長官という人がマスコミ相手に答弁を繰り返していた。
庶民感覚もあってなんとなく親近感もある。
皮肉なことに総理よりもこの人のほうが好感度が高いという逆転現象も起こっていた。
たしかに頼りがいがあるんだよな~。
――俺がどれだけ一生懸命に働いてきたと思ってんだ。チッ。
運転席のすぐうしろに座っている【黒杉工業】という刺繍の入った作業着の男がテレビに向かって舌を鳴らし悪態をついた。
見た目は六十代で真っ黒な日焼け顔が印象的だけど、それよりも頬にある大きな黒子のほうが目立つ。
その男はなにをいってるのか聞きとれないけど、顔を引きつらせてブツブツとなにかをつぶやいていた。
チッ。っという舌打ちだけはさらに強まった。
――今までどれだけ我慢して。と語気を荒げ唇を噛む。
拳をグーの形にして手で座席を貧乏ゆすりしている。
手を揺らすたびにテレビを固定しているステンレス製の防護柵からカシャンカシャンと音がしている。
気のせいかテレビの固定具の右端がグラっと緩んだように思えた。
男はさらにヒートアップして一度強く座席を叩いた。
座席の周囲にベロアの繊維と埃が舞う。
差し込む太陽光に照らされた粒子状のゴミがスノーグラスのように宙を漂っていた。
俺は空いてきた車内でその人を観察するようにながめていた。
たしかにずっと見ているのも悪いと思ったけど、目を離せない。
こんな公の場所で感情的になるなんて、よっぽどテレビの内容が気に入らないんだろう。
今もテレビから与党だとか野党だとかいってるけどぜんぜんわかんねー。
その男は周囲の視線に気づいたのかすこし眉をひそめて顔を窓の外へ向けた。
――チッ!!
最後にもう一回だけ大きな舌打ちが聞こえた。
ある女の乗客の人がテレビを固定している金具が外れそうになっているのに気づいて運転手に報告していた。
やっぱり外れかかってたか。
その状況がすぐに伝わったようで運転手はつぎのバス停ですこし遅れると簡単なアナウンスをした。
座席の下から工具箱を取りだして通路に置き、両開きの鉄製の箱からプラスドライバーをだして防護柵へと近寄っていった。
白い手袋をとってネジをドライバーで右へときつく締めていく。
舌打ちした乗客は一度たりともその様子を見ることもなく外を見たままだ。
鷹司官房長官の会見もいまだにつづいている。
運転手の手のひらから甲にかけて黒い痣があった。
黒いクレヨンの絵をこすったような痣が手全体に広がっている。
突然数式を解いていたはずの九久津の手がピタっと止まった。
な、なんだ? どうしたんだ突然? あの黒子の男がバスの雰囲気を悪くさせたときだって黙々とノートに向かってたのに。
「あんなに……」
九久津がぽつりといった。
「えっ?」
俺は九久津がなにに対してそういったのかがわからなかった。
でも九久津の視線を追うとプラスドライバーを手にした運転手のことだとわかった。
「あの手だよ」
「手……? ああ、あれか。火傷の痣とかじゃないの?」
「違うよ」
九久津はまるであれがなんなのかを知ってるようにきっぱりと否定した。
痣を見つめる九久津の目は尊敬の眼差しだ。
「じゃあなんなんだ……?」
「バス問わず六角市のルーティーンを回ってる運転手のほとんどは市内に結界を張る役目を担ってるんだよ」
「えっ!? ……今なんて?」
「だから日常的に結界を張ってるんだよ」
「け、結界……?」
「そう。あの痣は結界を張る上でどうしても負ってしまう魔障の一種。瘴気と結界がぶつかり合ってできる傷。特に郊外ルートは交通の便が悪いからひとりが受ける魔障の影響は大きい。まああの痣に対しては日々救護部が治療方法を研究してるらしいけど」
俺は覚えてる、初めてバス通学したあの朝を……。
運転手はまっさらな白い手袋をはめてハンドルを握っていた。
あの手袋は滑り止めとか清潔にみせるためとか聞いたことがあったけど……。
それに加えて市民のためにもっと大事なことをしてくれていた。
「そんな……。俺たちの知らないところで」
「ああ、そうさ。六角市民の中には町のために自分を犠牲にしてる人がたくさんいるんだ。俺たちだけじゃなくね」
俺が、いや若者が知らないところで、大人たちがアヤカシの脅威をすこしでも減らそうとこの六角市を守ってくれていたんだ。
九久津の尊敬の目はそういうことか。
今度は俺もその立場になれるように頑張ろう。
九久津は座敷のひじ掛けにノートを立てかけ自分のスクールバッグを広げてがさごそと中を探ってふたつ折りの長財布をだした。
財布の中も九久津らしく几帳面に整理されている。
九久津はよくあるカード入れから一枚の薄っぺらなカードをとった。
「ほらこれ」
俺が受けとったのはふつうのポイントカードサイズのバスの時刻表だった。
カードの小さな面積の中に数字と黒い点が縦にふたつ並んだ記号がある。
この点がふたつ並んだ記号は何時何分の何時と何分のあいだに使う点で時刻を現すときのものだ。
「……ん?」
九久津はそのままカードの右下を突くように指さした。
グラデーションのロゴと社名がある。
『株式会社六角バス ヨリシログループ』
「あっ、このバスも寄白さんの会社と関係あったのか?」
「そう」
バス会社って市営じゃないのか? ある意味株式会社ヨリシロという会社は六形市を効率良く守るための組織みたいだ。
そこで俺にはある疑問が湧き上がってきた。
もう周りに客もいないし、これなら九久津と小声で話しても問題ないよな。