校長室が騒然としていたころ寄白はひとり「六角第一高校」の四階にいた。
「……」
人体模型はいつもの全力疾走とは違っていて、重い怪我でもしたかように右足をひきずりトボトボと歩いてきた。
足の甲がズルズルと床にこすれる音がする。
片方の足で歩いてきたために右膝に重心がかり足の裏からもぺたぺた音がした。
「誰になにをいわれた?」
寄白は淡々と問いかけた。
人体模型はいまさら寄白の存在に気づいたかのようにゆっくりと顔を上げた。
「なにがでやんす……?」
人体模型は細い声でつぶやいた。
人体模型の右半身は壊死したように真っ黒く、強風に舞う砂埃のように禍々しい瘴気を漂わせている。
「おまえとはさだわらしが転入してくる前からのつき合いだよな?」
「そうでやんすね?」
磁石に引かれる砂鉄のような黒い気体がはっきりと目視できる。
右半身は現在進行形で煤けて、人体模型の闇を深めていく。
「お嬢……あっしは何者なんでしょうか?」
人体模型はもはや左半身と右半身で別生物のようだった。
鼻を中心に左右に分かれた口からは二重の声がしている。
左からは優し気な青年のような声、右からはノイズの混ざった濁った声だ。
雑音のような濁り声はどこか物憂げだった。
「オジョウ。教えてくだせえ?」
ふたつの声が重なって混線したラジオのようになっている。
寄白はギリっと奥歯を噛んだ。
それに連動するように寄白の握った拳には力が込められている。
だがすぐに表情筋を緩め、そのまま悲しそうに人体模型を見つめた。
哀し気でありながらもその瞳は凛々しく、寄白になにかを決意させたようだった。
「おまえほど四階で会った回数が多いアヤカシは初めてだ」
「そうでやんすか?」
「ああ」
(アヤカシが自己の存在に疑問を持ちはじめたらそれはもうブラックアウトの前触れ。私はときに恐怖支配することでおまえを抑え込んできた、でも……あとはもう退治するしかない……)
「あっしはどうして人体模型なんでしょうか? できることなら人間に生まれたかったでやんす」
「そんなことは誰にも説明できない」
(自己喪失か……? くそっ、もうそこまで? 死者と同じやり口か?)
「アッシ気づけば人体模型だったでやんす。ジブンで望んでこうなったわけじゃないでやんすよ?」
「ああ。知ってるよ」
「アッシを殺しますか? 勝手ですやんすね?」
「ああ。殺す」
寄白は一瞬のためらいもなく即答した。
固まった決意は揺るがない。
「オジョウになんの権利があってアッシの存在を奪うでやんすか?」
「おまえのいうとおりだ。私にもわからない。私のこの力はいったい誰に与えられた生殺与奪なのか?」
(ルーツを遡れば辿り着くのかもしれない私の源流に……ただ、今そんなことを考えても無意味だ)
「家畜だって同じだと思うでやんすよ? ただ牛に生まれた、ただ豚に生まれた、ただ鶏に生まれた。ただそれだけなのに食料として殺されるなんて……」
「ああ、反論の余地もない」
(くそ、くそっ!! 入れ知恵されやがって。答えのない問い。これほど厄介なものはない!!)
寄白は地団駄を踏むように一度強く床を蹴った。
――ズシッ。鈍い音が四階の重い空気をいっそう重くした。
寄白の足の指先に鈍痛が走る。
「逆に考えてくだせえ? アッシが人間を殺そうとしたらどうしやす?」
「みなまでいうな」
寄白は耳に手をかけそっと十字架のイヤリングを持った。
十字架を振りかぶる仕草をみせたが、そのモーションにはためらいが現れていた。
人体模型の真理をついた質問に寄白の決意が揺らぐ。
人体模型はそれほど大きな命題を提示した。
寄白は何度となくアヤカシを退治と称して殺してきた。
そこにはすべて自分イコール善と、人を襲うアヤカシイコール悪の構図ができあがっていたからだ。
だがこの人体模型はどうだろうか。
四階に出現した瞬間からただ声を上げて廊下を走りつづけていただけだ。
この閉ざされた亜空間の中で人間に危害を加えるわけでもなく己がなんなのかも知らずに走っていた。
寄白はある種の生殺与奪権を当局によって与えられている。
それはアヤカシを「生かす」か「殺す」かの権利だ。
ただ、自分に宿された能力は誰に与えられたものなのか、寄白はその答えを持ち合わせてはいない。
わずか高校二年生の少女は初めてアヤカシを殺すことに罪悪感を覚えた。
この人体模型に自分がなにかされたのか? この人体模型は人を襲ったのか?
いや、この人体模型にかぎっては過去に一度だって誰かに危害を加えたことはない。
ただ、ブラックアウトすればまた話は変わってくる。
無条件で他者を襲うことになる。
ここで下す決断はいま退治と称してアヤカシの人体模型を殺すことしか手段はないということだ。
こと四階において寄白が過去に倒したアヤカシはすべてブラックアウトする兆候を持つか初期段階で人を襲うようなアヤカシだった。
今回の人体模型はたまたま穏やかで愚直なアヤカシだっただけ。
それはアヤカシの性格を形作る負力の構成要素によるものだ。
今、目の前の人体模型はただアヤカシらしからぬ性格の持ち主だっただけだ。
今、現在、沙田の転入以後「六角第一高校」の学校の七不思議で寄白によってその存在の猶予を与えられているのはわずか一体、《誰も居ない音楽室で鳴るピアノ》だけだ。
人体模型は最期を悟った。
それは辞世の句とでもいうかのように言葉になって口をつく。
「青い空の下で太陽を浴びて走りたかったでやんす」
人体模型の瘴気はついに左半身をも浸潤しはじめた。
アイスに群がる蟻のように黒い面積が増えていく、すでに体の半分以上は黒く覆われていた。
そしてまた瘴気は人体模型を包む。
(おまえはずっと四階にいたんだ。青い空も太陽も見たことないだろう? 誰がそんな知識を、誰だ!? ……アヤカシ自身は誰かに知恵を与えられた認識もないだろうけどな。……もしかして私が教えたオリンピックあれも余計な知識だったのか?)
「私だって自分が何者なのかわからないさ。でもなそんな悩みはまた明日学校にけば吹き飛んでいくんだよ」
(ずるいよな。私には仲間がいるんだから)
「オジョウ……ひと思いに」
寄白は人体模型に銃口を突きつけるように十字架を向けた。
漆黒の十字架は不規則に瞬きはじめる。
人体模型はなにひとつ抵抗することはなかった。
寄白は余命宣告する医師のように――わるい。とつぶやき、床に視線をずらした。
アヤカシとの戦闘時相手から視線を外すことは自殺行為に等しい。
寄白はそれでもあえて人体模型から目を背けた。
いや、そうせざる負えなかった。
(なんでそんなに往生際が良いんだよ。もっと憎めよ。この隙に襲い掛かってこいよ。じゃないと、じゃないと、私はただの虐殺者じゃないか!?)