第109話 孤高の医者(ひと)


 「九久津さん?」

 九条はそっと白衣を脱ぎ、クルっとたたんで机の上にゆっくりと置いた。

 そのしぐさはタンスにしまうように丁寧で九条自身でなにかの区切りつけたようだった。

 九条はそこからすこし体をねじらせてデスクの二番目の引き出しから「KR」のバッジをとりスクラブの襟にピン留めした。

 「はい?」

 考えごとをしていた九久津も現実に戻ってきた。

 「これから……」

 「わかってます」

 九久津は九条の言葉を遮った。

 「役人とうきょくとしての質問ですね?」

 九久津はすぐに察した。

 「そうです」

 九条は勘のいい九久津に対して文頭の説明を省く。

 「わかりました。なんでも訊いてください」

 「まず、ひとついっておきます。こう見えて僕はずるい人間です」

 「えっ、先生が? いってる意味がわからないのですが?」

 「その意味はあとで答えますのでとりあえず僕の質問に答えてください」

 「わかりました」

 

 九久津は九条をいぶかしみながらも同意した。

 ただし本心から疑っているわけではなくどこか戸惑っているという感覚だった。

 「医師には守秘義務があります。知ってましたか?」

 「ええ。それはなんとなく」

 「たとえば麻薬を使用している患者がきても医師に通報義務はありません」

 「それはつまり先生が“役人”と“医師”の立場を自由に使い分けするってことですか?」

 「理解が早いですね。けれどすこし違います。僕の立ち位置は“医師”の下に“役人”があります。“医師”の括りの中に“役人”が入っているということです」

 九条は机の上の白衣をサッと広げてその場で二、三回宙を泳がせてから九久津の上半身にかけた。

 九久津は――どういうことですか?と訊きながら白衣を羽織る。

 九久津もさすがに体が冷えてきたのかすこし背を丸めた。

 これからまた話しが長引いていくことを十分に理解している。

 「さきほどいったずるいという意味の答えですが。僕は患者さんの治療の妨げになることなら当局にも情報を渡しません。当局に要請されて知り得た情報でも僕の判断で取捨選択します」

 「それはつまり当局に不都合な情報でも患者を優先して先生のところで情報を止めるってことですか?」

 「ええ。そのとおりです」

 「どうして?」

 「僕は寝ても覚めても魔障専門医だからです。能力者であっても役人であっても、すべては医者の任務の遂行のため。救命のために生きています」

 「……」

 九久津は戸惑った。

 それはかつて出会ったどんな大人とも違っていたからだ。

 九久津や寄白たち高校生にとって当局は大人であり国益優先、損得勘定で動く組織人そしきじんだ。

 九久津自身も、省庁に属する人間はそれが当然で、むしろそれが日本にとって有能な人物たちだとも思っている。

 

 一方でそれがまた少年少女の嫌悪の対象にもなった。

 寄白と二条の溝もそんなところから生まれた必然の結果だ。

 アヤカシから人を守るという終着駅は同じでも、やがて大人になり当局に所属する以外に両者の立場が平行線で交わることはない。

 

 九久津も寄白もそれを割り切る賢さを持っていてもときどきどうしても反発してしまう青さがあった。

 それは心が未完成な若者の当然の帰結だ。

 そんな中で今日、九久津は当局にながらも患者のためなら国に盾突き情報を切り売りする人に出会った。

 

 (この人はなによりも患者を優先する人なのか?)

 どことなく兄、堂流の信念に近いものを感じると九久津の中で信頼感さえ芽生えはじめた。

 「ただし、一点だけ注意事項があります」

 「なんですか?」

 「僕よりも上の立場の人物が公的な書類を揃えてきた場合と当局が特権を行使して強制的に介入してきた場合は秘密の保持は約束できません。書類で残っていれば当然押収されるでしょうし。あるいは人の情報を強奪うばうような能力者がいればそれも防ぎようがありません」

 「そこは納得します」

 (俺ももう憐れな弟は卒業しよう。これ以上みんなをあざむく必要はない。きれいな証明はできなかったけど……。もう、いいよな。兄さん……。ざーちゃんあのときは大きな声出してごめんな)