第140話 救偉人の医師


エネミーの眠気もすっかり飛んでいったようだ。

 ずっと座ってるのもなんなんで俺もエネミーその辺をうろうろする。

 あるところで診察室の壁に貼られている家庭用プリンタで印刷したような新聞や雑誌のコピーが見えた。

 へ~この角度なら部屋の隅が見えるんだ。

 カラースケルトンのムシピンで貼られたどれもこれもがある人をたたえていた。

 記事の中には大きな表題のあとにどれだけのことをやり遂げたのかと、それが将来どう役立つのかなどのインタビューもある。

 他には、うがい手洗いを啓蒙するポスターもあったりでふつうの診察室の姿もあった。

 「エネミーあれ」

 俺のあとをついてくるエネミーにもそれを教えた。

 「急になにアルか?」

 そんな中でもひときわ目立つ金色の額縁が壁にあった。

 中には賞状と五百円玉くらいの青い五角形の勲章が収められていて賞状には【救偉人”前”の称号を与える】と書かれている。

 アヤカシに関係する各分野で優秀な功績をあげた人に贈られるのが救偉人の勲章だ。 

 俺は正直、近衛さんから救偉人は毎年春と秋に十八人に勲章が授与されるって教えられるまで「日本の能力者のこの九人がヤベー!!」みたいなキャッチコピーの九人だと思ってたからな。

 「ほら、すごい人だけがもらえる勲章だ」

 俺がその場所で新種のUMAを発見したごとく指差した。

 「そうアルか」

 

 エネミーは素っ気ない。

 なんだよぜんぜん乗り気じゃねーな? ――そ。俺が今、しゃべろうと思った瞬間だった。

 ヤ、ヤバっ、なんだ、この絶望感、く、暗い感じ。

 なんなんだいったい? 気持ちが奈落の底にでも落ちていくような……闇が迫ってくる。

 両足がなにかに掴まれて闇に沈んでいく感じ。

 絶望、絶望、絶望。

 希望という選択肢がすべて奪われるような虚無感。

 

 ――おさまれ。

 頭の中で声が響いた……俺はこの声を知っている。

 つい最近も聞いたことがある。

 ――『ときがきたら君の力を貸してほしい』っていったあの人の声だ。

 

 その声を聞くと、まるでぬるま湯に浸かるように心が穏やかになった。

 ……あ、なんか眠る前の心地よさに近い。

 診察前の緊張ってわけでもないし。

 なんだったんだ? 胸の裏でキツツキが連打してるようにまだ心臓が脈打っている。

 ――沙田さん。沙田雅さん。診察室にお入りくださ~い。

 

 そんなときにちょうど俺の名前が呼ばれた。

 国立六角病院にきてから長いこと待ったけどやっと診てもらえる。

 「はい。エネミー静かにここで待っててくれ」

 俺はエネミーに声をかけさっそく診察室に向かう。

 「わかったアルよ」

 エネミーはまたソファーに戻ると、まるで空気を駆けるように足をぶらぶらと揺らしていた。

 診察室に入ると一足先に看護師さんがそこに立っていた。

 バスガイドの人が――こちらに見えますのが。と、やるようなジェスチャーで手を出してくれたので俺はそっちに進む。

 診察室のデザインはかっこいいけど部屋に置いてあるものはいたってふつうの診察室だ。

 クイズでここはなんの部屋でしょうか?という問題があれば誰でも診察室と答えるような道具が置いてある。

 ――あれならもう明日くらいには人面瘡の根が動脈から剥離はくりしそうだね。あっ、それとまだ処置室にCT画像あるからかたづけておいて?

 

 そんな穏やかで落ち着きある声が聞こえた。

 ――はい。わかりました。でもまさか葵ちゃんの大腿動脈だいたいどうみゃくに巻きついていた人面瘡の根がもうあんなに縮小しているなんて。

 その返答した看護師さんの声も聞こえた。

 さっき会った”あおい”ちゃんは診察終わりだったのか、そしてその”あおい”ちゃんの人面瘡を診たのは間違いなくこの部屋の医者だ。

 真っ新な白衣の中に青の医療着、高身長で端正な顔つき。

 年齢は四十代くらいで黒い丸ぶちの眼鏡をした人が現れた。

 どことなく安心感がある。

 それはたぶんさっきの診察の光景を見ていたからだろう。

 だから無条件ですべてを任せられる気がした。

 ネームプレートには【総合魔障診療医】只野或斗ただのあるとと書いてあった。

 そう、病み憑きの治療をしてた先生がこの只野先生だ。

 

 救偉人の称号を持つ魔障専門の医者。

 病み憑きの対処をしたあと、すぐに葵ちゃんの膝を診てこんどは俺の診察をするってことか? いったい一日に何人の患者を診てるんだろう? 大変そうだけど、その役目は誰もができるわけじゃない。

 本当に狭き門を越えてきた選ばれた人間だけができることだ。

 当然だけど病み憑きの診察のときとは別の白衣に着替えていて、その白さに俺はいっそうの信頼を寄せた。

 「よろしくお願いします」

 「お待たせしました。きみが沙田雅さだただしくんだよね?」

 只野先生はそういって自分の椅子に座ると患者用の椅子を引いて俺に差し出してくれた。

 ――はい。と答えて俺は座った。

 「そうきみがね~。問診票みたよ。目の異常だってね?」

 「はい。只野先生って救偉人だったんですね?」

 「まあ、いちおうね」

 只野先生は謙遜してはにかんだ。

 「壁の切り抜きとかすごいですね?」

 「えっ、ああ」

 只野先生はうなずきながらチラチラと壁を見た。

 「あれは新しい記事がでるとスタッフが勝手に貼っていくんだよ。そんなことしなくてもいいっていうんだけどね」

 只野先生は横にいる看護師さんに目を向けた。

 看護師さんは目を大きくして照れ隠している。

 この看護師さんが貼ったんだ。

 「それだけスタッフのみなさんが誇りに思ってるってことじゃないですか?」

 「まあ、そうだと嬉しいけどね」

 只野先生はまた看護師さんを見た。

 そんなとき診察室の外からザワザワとした騒ぎ声が聞こえてきた。

 最初はごちゃごちゃとした声でなにをいってるのか聞きとれなかったけれど、しだに話の中身がわかってきた。

 

 ――救偉人の先生に診てもらいたいの。救偉人じゃなきゃイヤなの。それ以外の医者は信じられない!!

 

 そんな無理難題を繰り返し訴えている。

 部屋にいた看護師さんが眉をさげてすぐに診察室の外へ出ていった。

 こんな患者ほんとにいるんだ。

 モンスターペイシェントだっけ? だからこそ俺はすごい先生に診てもらっていることに気づく。

 今の俺って校長経由の特別待遇なのか? スマホを持ってるか持ってないかだけで天地の差がある時代。

 金があるからVIPの病室に入院できる、それと同じだ。

 騒ぎ声の患者は看護師さんになだめられる声とともに、どこか別の場所に連れていかれたようだった。

 「ときどきいるんだよ。他の先生だってすごい先生なのにね」

 只野先生はすこし肩を落とした。

 謙虚な先生だ。