「そう。じゃあしばらく様子を見ようか?」
「はい」
「じゃあ点眼薬で赤い涙を透明に変えるものを処方しとくけど。いいかな?」
「はい」
「……けど……」
けどって? なんでそこで止めるんだ。
只野先生はカルテに文字を書きながら言葉を切り、またさらさらとカルテに薬の名前を書いていった。
独特なその間から、つぎは結構大事なことをいわれるんだろうなってすぐにわかった。
診察室にどこからともなく不穏な空気が流れてきた。
これは今の俺にしか感じることができないものだ。
きっとこれを「不安」と呼ぶんだろう。
これからなにをいわれるのか? 緊張するな……只野先生はまだこっちを見ない。
の、喉が渇く。
「沙田くんの症状って慢性的だよ」
えっ!?
「それってどういう?」
俺は只野先生の横顔と会話した。
只野先生の腕が止まってゆっくり俺のほうへと向き直す。
真剣な眼だった。
慢性的ってことはふだんの生活でも症状が出てたってことだよな? でも、俺は今まであんな赤い涙を流したことはない……。
「もっとむかしから異変はあったはずなんだけど……」
俺は高二になるまでずっとそれに気づかずに生活してたってことか?
「眼球結膜の混濁点から推察するとおそらく十年くらい前から【啓示する涙】に罹患していた。【啓示する涙】に罹っていても明らかな症状が出るのは千差万別でね。心当たりはないかな?」
「十年前ですか? いいえ。ないです」
俺は自然に首を横に振っていた。
十年前? 十年前か……謎だ、十年前俺になにがあった?
「問診票の備考欄に書いてあった発症のきっかけは忌具じゃないかってあれはどういうこと……?」
「あっ、あれですか、あれは僕が忌具保管庫に入ったときに赤い涙が出たので、もしかしたら関係あるんじゃないかと思って」
「そっか。なかなか鋭い洞察力だね。ちなみにそこで触れた忌具の種類はわかるかな?」
「種類ですか? えっと」
九久津の家にいっていちばん最初に関わった忌具ってなんだっけ? 最初は……壺、そうだ壺。
九久津の罠によって俺は壺に手をつっこんでとれなくなったんだ。
そしてつぎがあの本物っぽい預言の書……そのあとは座敷童が飛び出してきたパンドラの匣。
んで最後がパープルミラーか。
「えっとですね。カラクリの壺。預言の書。パンドラの匣。そしてパープルミラーです」
「そっか。固有名詞じゃなく種別で分けるとすると壺と書物と匣物と鏡ね。ちょっと待ってね」
只野先生はおもむろに立ち上がると診察室の天井に届きそうなくらいの高さの本棚の前に向かって歩いていった。
そこのガラスの扉をスライドさせてまるで宝探しでもするように指をジグザグに動かしている。
俺がいることを忘れたかのように夢中でなにかを探しはじめた。
とある場所で指先が止まる。
そのまま水平に手を伸ばしてなにかの本を手にとった。
掴んでいたのは分厚い辞典だ。
ここから見てもすげー硬そうなカバーだとわかる。
辞典の表表紙、背表紙から裏表紙まで横断して上下に金色の線が走っている。
背表紙には「忌具辞典」という金箔張りのタイトルが見えた。
本の厚みだけ忌具が載ってるってことはそれだけ種類があるってことか? しかもシリーズって文字まで入ってるし。
あっ、そっか世界中の忌具が載ってるからか。
とするとまだまだ他に「忌具辞典」があるってことになる。
只野先生はドンと音を鳴らして「忌具辞典」を机の上に置いた。
そのまま椅子に腰かけて辞典の真ん中で開く。
――えっと。といいながら開いたページを起点にすてさらにページをペラペラとめくっていった。
俺がチラっと盗み見した「魔境」の項目だけでもものすごい数がある。
【ディオ・スペッキオ】。
イタリアのレベル五の忌具の名前がかすかに見えた。
あれっ!?
俺はその鏡を知ってる気がする……忌具保管庫に入ってすぐ目にした鏡だ。
――聖書なんかに登場しててもおかしくない雰囲気の鏡。って思ったんだよな。
……でも決定的に違う点がある。
それは鏡本体にあった文字だ。
あの鏡はたしか「A」と「C」って文字だった。
九久津が――兄さんがACミラーって呼んでた。っていってたからよく覚えてる。
まあ、世の中のお宝で見た目はそっくりでも価値は雲泥の差ってのも多いし。
魔鏡自体もすげー種類があるんだろうな。
「えーと。【啓示する涙】に関連がありそうな忌具はっと……」
只野先生は俺を置き去りにしたまま独りごとのように声を出して忌具を調べている。
ただ俺は申し訳ない気持ちになった……もっと早くにいうべきだった。
それならこんな手間をかけさせることもなかっただろう。
「あの~すみません」
「ん、なに?」
只野先生は俺に目を向けることもなくまだ忌具辞典をめくっている。
「僕が関わった忌具って忌具保管庫のレベルゼロのフロアにあったガラクタなんで、たぶん【啓示する涙】には関係ないと思います」
俺がそういうとすこしの沈黙があった。
カサっカサっと紙のめくる音だけがする。
「いやいや」
只野先生はまたページをめくる。
「そんなことないよ」
指先がページの右から左へと流れていく。
「レベルゼロのフロアでも忌具であればそれらに障られることはあるから」
えっ、そうなの? 俺の言葉はいきなり否定された。
「そ、そうなんですか?」
「レベルではなく。忌具か否かで判断するんだよ」
只野先生がそう返したときそこでピタリと手が止まった。
そのページでまた指先が這うように動いた。
口元がなにかをつぶやいてる。
「そうですか。わ、わかりました。すみません」
やっぱり俺は素人だった。
プロはすげーな。
そういや校長がいってたっけ――下の階層に負力が流れるくらいならゼロのフロアのガラクタに負力を入れたほうがいいって。
ガラクタでも負力が入ればそれはそれで忌具になる。
そうなればレベル関係なく障られることがあるってことか。
「預言の書。これに共鳴して赤い涙を流した前例があるね」
「預言の書ですか……?」
「うん、そう。まあ、”預言の書”っていっても世界には無数に存在するから。一概にそれが原因ともいえないけど」
預言の書ね~内容はえっと、なんだっけ。
俺は思い返す。
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【黙示録~終わりの始まり~】
終焉の足音が響く刻
天空より舞い降りる 白き衣を纏いし 双翼の者
絶望を孕んだ黒き魔獣は咆哮の果てに漆黒の化身となる
だがそれも聖なる御剣によって鎮められる
白き衣の者は最後の“ひとつ”となる
矮小なその手に矮小な球体を持って消え行くのみ
猫はただ透明な水に両目を塞がれた
そして始まる百花繚乱の“終焉”
灰色の叢雲が世界を覆うだろう
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俺はなぜかすべての文言を覚えていた。
たぶん一言一句間違ってないだろう。
「……【啓示する涙】の病名にも入ってる。啓示とは。”よくわかるように現し示す”こと。つまりは預言と同義だからね」