第143話 あの日診た患者


 只野先生はそういって「忌具辞典」をパタンと閉じると机の横にあるラックに両手を伸ばした。

 ラックの上に置かれている銀色のボウルには透明な液体が入っていて只野先生はそこで手首から指先までをバシャバシャと洗った。

 きっと消毒だろう。

 ボウルの上で何度か手を振って飛沫を飛ばしてからラックの横にかかっているタオルで手を拭く。

 「ごめん。もう一回診せて」

 

 只野先生は俺の下瞼を引っ張ってまた目の中をのぞきこんだ。

 指先からクレゾールのにおいがする。

 やっぱりあの液体は消毒だ。

 「じゃああのガラクタの預言の書がこの魔障の原因かもしれないってことですか?」

 俺はされるがままで今もあっかんべー状態だ。

 只野先生の指はそのまま俺の右目から、左目に移った。

 「おそらくは違うかな。僕は沙田くんが十年前に【啓示する涙クリストファー・ラルム】にかっていたとみている。でもいつどこで【啓示する涙クリストファー・ラルム】罹患したのかははかりかねるけど。今回は沙田くんが忌具保管庫でなにかの忌具に触れたことで潜伏期間だった【啓示する涙クリストファー・ラルム】の随伴症状つまり、赤い涙が出たってことだと思うよ」

 只野先生はそういったあとにひとりうなずいた。

 

 ――うん。OK。

 

 只野先生の声がかすかに聞こえる。

 それは只野先生自身にも言い聞かせているようだった。

 「ってことは僕のこの魔障って、じつは十年前に罹っていて預言の書に触れたことで、それが発症したってことですか?」

 

 「う~ん。約十年前に罹患した。これは正しいはず。ただ現状その原因が預言の書の影響なのかどうかは断定できない。あくまで辞典の中にそういう例があったってだけのことだから。最近、体質に変化が起こったことはない?」

 「あっ!? あります!! あります!! 特異体質だと思ってたものがきれいさっぱり消えました」

 そう。

 俺はあの「シシャ」の反乱の日を境に完全に体質が変わった。

 

 「どんな体質だったの?」

 「アヤカシに遭遇うと体中に電気が走って震える感じです」

 「そっか。それは能力者特有の条件反射だろうね。他の能力者でもアヤカシの気配を感じると実感の有無にかかわらずなにかしらの反応は起こるからね。それでその体質はいつ消えたのかわかる?」

 「えーと……たぶん。シシャとの戦い直後だと思います。ツヴァイドライが出現した影響で」

 「なるほど。大きな転機で体質が変わることもよくあるからね。その特異体質の消失と引き換えに【啓示する涙クリストファー・ラルム】が悪化したのかもしれないかもしれない。沙田くんの特異体質って生まれつきだったの?」

 えーと、あれに気づいたのはいつだっけ? 園児のときにドッペルゲンガーと目が合った瞬間もブルってた記憶があるな。

 けど、あれはツヴァイのことだろうし。

 水陸両用の翼竜を見たとき……って、あの恐竜は……鵺のはずだし。

 だとしたらやっぱり十年前か。

 正確には十年くらい・・・前だから只野先生の推測と一致する。

 十年くらい前なら、俺が園児のときも十年くらい前の範疇だろう。

 ただ俺が赤ちゃんのときにそれがあったかないかは自分じゃわからないな。

 「生まれつきなのかどうかは、ちょっとわかりません」

 「そう。まあ、しばらく目薬を使ってみてよ?」

 「は、はい。わかりました。あの~魔障って本当にたくさんの種類があるんですね? さっきたまたまハンバーガーを食べてる女の娘を見て思ったんです」

 「あのとき沙田くん居たんだ?」

 

 只野先生がちらっと俺を見た。

 「アヤカシや忌具から受けた疾病。それにディザスター型で多くの犠牲者が出る広域指定災害魔障なんかもあるしね。本当に幅広いよ」

 「あまり一括りにはできないって感じですか?」

 「そうだね。たとえば産卵の産に女と書いて産女うぶめという種類のアヤカシがいるんだけど。受傷者によっては厄介な症状を示す」

 「産女ですか?」

 「そう。そいつの技は口から思念砲というのを吐くんだけれど……」

 只野先生は両手を使って身振り手振りで技を表現した。

 「思念砲? 強そうですね。それをくらうとどうなるんですか? もしかして体がドッカ~ン!! とか、ですか?」

 「僕がくらったなら……」

 只野先生が間を置いた。

 今度の間はそんなに深刻な感じはしない。

 「ハリセンで叩かれるくらいの衝撃」

 

 腕を振り下ろす仕草をした。

 「よ、弱っ!! 弱くないですか?」

 

 「そうなんだよ。産女は非力な低級アヤカシだからね。ただ産女の思念砲で怖いのは物理的な衝撃じゃなくて思念のほう」

 「思念?」

 「産女の成り立ちは非情な目にあった妊婦でね」

 そういえばアヤカシって時代に沿って新種が誕生したりするんだっけ? いろんな時代で悲惨な目に遭った人たちの負力がアヤカシを生むんだよな。

 それなら現代でもいろんなアヤカシが生まれるってことになる。

 てかこの時代のアヤカシはヤバい気がする。

 上手くいえないけどなんか極端から極端にメーターを振り切ってそうな。

 むかしならアヤカシにも人知無害な種類もいたんだろうけど。

 今は誕生した瞬間からブラックアウトみたいに闇が強そうだ……。

 そのうち大勢の人が犠牲になるようなとんでもない種類が生まれるかもしれない。

 「だからその思念砲が怖いのは色恋いろこいを抱えた感情に反応し受傷者の心を惑わすことにある。でも、まあ免疫力のように受傷者の防御力しだいって側面もあるんだけどね。産女の思念砲は男性だと罹患りかんせず女性にのみに発症する。だから僕らがくらってもハリセンで叩かれたていどのダメージ。女性の場合はそのときの環境しだいってことになる。産女の思念砲は女性性魔障と呼ぶんだけどね」

 「えっ、性別によってかかかからないもあるんですか?」

 「そうだよ。当然、男性にだけ罹患りかんする男性性魔障もある。濡れ女の誘惑とか民話にある雪女の誘いとか。【氷女の口づけ低温火傷フリーズ・ベーゼ】って魔障なんか怖いよ~。雪女に氷漬けにされちゃうから。冬季だとときどき運ばれてくるかな」

 こ、怖っ!? 

 怖すぎる。

 雪女、恐るべし。

 民話や昔話も現代人への戒めや忠告とかって話もあるし、でも現代はそんなのとはタイプが違う気がする。

 むかしならアヤカシもすこし人を怖がらせてやろうとか心を入れ替えたら許すとかそんなが種類が多かったように思う。

 ところが今は音もなく突然現れてはバッサリ斬っていく……的な。

 さしずめアヤカシの現代っ子。

 「でもアヤカシはどうやって性別を判断するんですか?」

 「これはもう見かけや、男の心、乙女心なんてのは完全無視で生物学上のXX染色体とXY染色体に反応する」

 「は~なるほど。完全に生物としての判断なんですね」

 お~、今日の授業が役に立った。

 学校の授業って本当にためになるんだな。

 大人のいう――将来のための授業。ってこういうことなんだろう。

 それに九久津も俺によくいってたっけ、兄の受け売りだけど――学校の勉強は大事だ、それこそこれからの戦いにも間違いなく役に立つ。って。

 「そうだよ。いつだったかな、僕が救急で出向いた患者さんも産女の魔障の【色恋の混乱アンテロース・コンフュージョン】だったな……」

 「へ~」

 でも、救偉人の先生ならそれもパパっと治せちゃうんだろうな。

 さっきの病み憑きの娘みたいに。

 「ただ、その産女ってのがかなり出現率の低いキメラタイプって種類だったんだよ」

 「キメラタイプ?」

 「そうそう。アヤカシがひとつの鋳型から二種類誕生するめずらしいタイプのアヤカシ」

 「そんな種類のアヤカシがいるんですね?」

 「うん。いるよ。ただキメラタイプが出現するなんて本当に稀なんだけどね」

 

 アヤカシの起源にそんなことは書いてなかった。

 ってそれは滅多にない出来事だからだな。

 「僕も覚えておきます」

 「ためになると思うよ。正直アヤカシについてはまだまだわからないことも多いし。まあ……それは魔障も同じかな。とりあえず今日の診察は終了。沙田くんには対処療法の一日一回の点眼薬を一週間分処方しておきます。それで涙い赤はふつうに透明になるから。他の人が目薬を差してるところを見ても疲れ目とかドライアイくらいにしか思わないんじゃないかな? 最近の高校生はスマホなんかの眼精疲労も多いし」

 はは、図星だ。

 診察してすぐのときに、――スマホやゲームもほどほどにね。っていわれたばっかだった。

 「わかりました。けど一日一回でいいんですか?」

 「うん。寝る前に差すだけで大丈夫。翌日は丸一日ふつうに過ごせるから学校生活に支障はないと思うよ」

 「本当ですか。寝る前に一回だけってありがたいです」