「九条先生。開けてもよろしいでしょうか?」
「はい。どうぞ」
「失礼します」
気を使って半分だけ顔をのぞかせたのは只野のところにいた看護師だった。
九条に罰当たり患者の代理診察を依頼した人物でもある。
「……ん。どうしたの? さっきの患者さんになにかあった?」
「あっ、いえ、違います。あのこれ」
その看護師は手を振って否定しながら視聴覚室の中に一歩だけ踏み込んでひょこっと一礼した。
逆の手には潰さないていどに丸まった紙を握っている。
「これです」
それはFAX用紙だった。
「なに?」
「九条先生。さきほどはありがとうございました。入ってもよろしいでしょうか?」
「あっ。どうぞ」
看護師はドアが閉まらないように大きく開いて固定させてから、また丁寧に頭をさげた。
「失礼します」
「うん。いいけど。それで」
「あの、これです」
「なに?」
「気象庁からのFAXらしいです」
「気象庁? ……からのファッ……クス……?」
九条はそれにまったく心当たりなく戸惑った。
「はい。そうです」
看護師はこくんとうなずく。
「それ僕に?」
「はい、そうです。ですのでお持ちしました」
「ぜんぜん思い当たるふしがないんだけど」
「えっと、外務省の一条さんの署名が添えられていますけど」
看護師が丸まっていたFAX用紙を開いて指さした個所には癖のある一条の直筆の文字があった。
【これ見た人がいたら九条に渡してね!! よろしく。外務省 一条空間】
「一条!? あっ、じゃあ僕だね」
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
「では、失礼します」
看護師は九条にFAXを手渡して頭を下げた。
その際にも罰当たりの代理診察のお礼を何度も述べてから最後の最後までドアの音に気を遣い視聴覚室を出ていった。
「律儀な娘だ」
(……一条、海外公務にいく前にこの手続きをしてくれていたのか。仕事の早い男だ。まあ国立六角病院のスタッフもみんな優秀だけど)
九条はFAX用紙に目を通す。
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一条様。
以下が質問の回答になります。
まことに申し訳ないのですがレイリー散乱はひとつの現象ですので日々観測するものではありません。
よって代わりとしてですが該当日、該当場所の一時間区切りの天気を記載いたします。
(温度、湿度も、ご所望ならば後日お申し付けください。)
該当時間が青空であればレイリー散乱は起こっていたと考えてよろしいかと思います。
それではよろしくお願いいたします。
●午前
0時~1時(晴) 1時~2時(晴) 2時~3時(晴) 3時~4時(曇)
4時~5時(曇) 5時~6時(曇/晴) 6時~7時(曇/晴)
7時~8時(曇) 8時~9時(曇) 9時~10時(晴)
10時~11時(晴) 11時~12時(晴)
●午後
12時~13時(晴) 13時~14時(晴) 14時~15時(晴)
15時~16時(晴) 16時~17時(晴) 17時~18時(晴)
18時~19時(曇) 19時~20時(曇) 20時~21時(曇)
21時~22時(曇) 22時~23時(曇) 23時~24時(曇)
日没 18時55分
気象庁
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(そっか。レイリー散乱ってのは毎日記録するものじゃないのか……ん? 日没が18時55分。18時以降が曇り……ってことは)
九条は小さなテーブルの上に置かれているリモコンにそっと指を伸ばした。
指先を二、三度漕ぐよう動かしてリモコンを自分の近くに引き寄せる。
そのままテレビの電源を入れてDVDデッキの本体にも電源を入れた。
ほんの数秒でDVDデッキが起動する。
九条はすぐに映像を再生した。
縦線と左向きの二等辺三角形がふたつ連なったボタンを押すと画面の映像が一瞬
で先頭まで戻っていった。
DVDデッキの数字はふたたびゼロからカウントをはじめる。
つぎは縦線と右向きの二等辺三角形がふたつ連なったボタンを押す。
九条はそのボタンをもう一度押して、二倍速で映像を再生していく。
そのご九条はとある映像の個所で標準速度に戻した。
そして音量のプラスボタンに親指を当てる。
テレビの画面の下で等間隔で並んいる長方形が右に増えていく、と、同時に併記されている数字も増大した。
(これくらいの音量なら、いや、もっとだ)
九条がさらに音量を上げていると看護師長たちの会話が流れてきた。
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「もう薄暗くなってきたね。患者さんもう着くかな?」
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(もう一回)
九条は縦線と左向きの二等辺三角形がふたつ連なったボタンを押した。
看護師長たちがカクカクとした動きで逆に動いている。
前に進んでいた足が下がっていく。
(ここで、再生)
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「もう薄暗くなってきたね。患者さんもう着くかな?」
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九条はその言葉を聞きとったあとに今度は二倍速の早送りをした。
(ここだ)
オペ室で見切れている壁時計の映像のところで一時停止する。
時計が示している時刻は19時05分。
(……九久津くんの蒼への執着。空が青い理由。青空。レイリー散乱。――
もう薄暗くなってきたね。日没。オペ室の時計)
九条はまたFAX用紙に目を向けた。
視線はトナーですこしかすれた文字を追っている。
(……看護師長は――もう、薄暗くなってきたね。といった。この時点では九久津堂流は搬送されてはいない。日没は18時55分。空の色と時間から考えてもこの時点ではまだ夜じゃない。天候に目を向ければ、その日の18時以降から日をまたぐ午前零時までずっと曇り。となると日没以降はずっと曇っていたことになる。レイリー散乱も雲によって阻まれている。結果的には夜になったとしても空に青空は出現ない。つまりはバシリスクが出現したその日に“蒼褪めた夜”なんて現象はありえないんだ。その日はふつうの曇った夜。もし医学的見地から蒼褪めた夜を再現しようとするなら……。それはきっと……そう……バシリスクの出現によって九久津くんの身に偶発的に起こったもの。ただその日バシリスクに関わった関係者たちがどこでなにをしていたのかが今後の焦点になるな)
画面の中の壁時計なおも19時05分で止まっていて、九久津堂流を救う人たちも止まっていた。
(診察室で九久津くんがしきりにいっていた“蒼い夜”。それは九久津くんの記憶に強烈に残る出来事だった。スタートとゴールが瞬時に圧縮される状況、“蒼褪めた夜”とは意識の途絶だ。九久津くんは昼間に青空を見てその直後に意識を失い夜にとり戻した。それが“蒼褪めた夜”の正体。医学的見解なら一過性健忘。わかりやすくいえば記憶喪失。健忘の引金がストレス性だったのか外傷性だったのか? あるいはもっと違うものだったのか……あっ、薬物性? 毒か?……ここは九久津家に訪問しての聞き取り調査が必要だな。そっちのアプローチから毒の入手経路の情報を得ることができるかもしれない)
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