第158話 痛みを背負う者


その声のあとすぐに社長室のドアの前で人の息づかいが聞こえた。

 繰はもうすでに誰が訪ねてきたのかをはっきりと理解している。

 リモコンを手に素早くテレビの電源を消した。

 ――コンコンと小さな打音とともに――お姉。入ってもいいか?という声が聞こえた。

 「ええ。いいわよ」

 「じゃあ入る」

 寄白はゆっくりと勢いよくの中間の力でドアを開いた。

 「美子。終わったの?」

 「ああ」

 寄白は繰を見据えたまま深刻そうにうなずいた。

 「んで、どうだったの?」

 「ノートの忌具だった」

 「そっか」

 「あの忌具はとてつもなく思念が強かった」

 「じゃあ早めに対処できてよかったわね?」

 寄白はその問いにすぐには答えなかった。

 繰は数秒じっくりと返答を待つ。

 

 ――美子。美子。どうしたの? 繰が心配そうにつづける。

 「あのノートの持ち主はこのしゃかいの犠牲者だ」

 「えっ?」

 繰はそう口にしてから子どもを諭すようにゆっくりと――美子。と名前を呼んだ。

 「忌具って元々そういう物だったじゃない? 負力という名の誰かの怨み辛み

が道具に入るんだから……」

 「わかってるよ」

 ――じゃあ。寄白は繰のその言葉に被さるように口を開く。

 「アイドル観たい」

 寄白は捨て犬を見つめるように物憂げな表情でぽつりとつぶやいた。

 

 ――アイドル? そう反唱した繰にはその言葉の意味がまったくわからなかった。

 「えっ、なんのこと?」

 「アイドルを観たい」

 「美子が観たいってこと?」

 「人で溢れ返ってた」

 寄白は浮かない顔のままそういった。

 「……ん? なに? どこが?」

 「六角駅。タオルやうちわそんなグッズを持った人がたくさんいた」

 「ああ~。今日はワンシーズンのミニライブがあったからね」

 「そして駅の柱が動く動かないの噂で盛り上がってた」

 「柱は株式会社ヨリシロうちの仕事でもあるしね」

 「……その駅であのノートの持ち主は列車に飛び込んだんだ」

 「えっ、あっ、そっか。いつだったかそんな事故があったわね?」

 「そう。誰も覚えちゃいないんだよ。他人がいつどこで死んだかなんて。柱が動いたのは列車に飛び込んだ人の呪いだっていってた。ある人は柱が動いたのは駅前のビルで飛び降りた人の呪いだともいってた。まるで添物そえもののように結びつけられて……」

 「う~ん」

 繰は寄白の言葉を優しく飲み込んで――たしかにそうね。と同意する。

 そこから繰は黙って寄白の話を聞きつづけた。

 「だろ。もし、あのノートの持ち主が今日飛び込んだならきっとファンはライブの遅延を心配するだろう。その人がどんな理由でなにに絶望して死んだのかはどうでもいいってことだ」

 「たしかにそうね。でも美子それはやっぱり他人だからよ。残酷なことだけど知りもしない人の人生に踏み込んでいく必要がないもの。だって知らない人なんだから。美子はたまたまそのノートの深淵しんえんをのぞいてしまった、だからそのノートの持ち主が知人くらいになっちゃったのよ」

 「そ、れは」

 「きっと美子だって今日その忌具と関わってなければその飛び込み事故のことも知らなかったんじゃないの?」

 「……」

 しばしの沈黙が訪れる。

 「お姉のいうとおりだ。返す言葉もない」

 「けど、私は美子のその優しさが好き」

 「お姉。どうしてあの人がその犠牲に選ばれたんだ?」

 「それは確率じゃないかな? この世界で“アタリ”を引く人と“ハズレ”を引く人がいたなら往々にして“アタリ”の数はすくないから。人生ってそんなものよ」

 「あのノートの持ち主はハズレを受け持ったと?」

 「そうね。それを運命・・とか宿命・・とかって呼ぶのかも」

 「ハズレが多いのは私でもわかるさ。でもハズレを引いた人が追い打ちをかけて苦痛を味わうのはどうしてだ? ハズレを上回るアタリをどうして与えられないんだ?」

 「もう世界中に負力が充満してるから」

 繰は考えつつ――かな。とたした。

 「悪いことには悪いことが重なってく。やっぱり世界って不条理で残酷なのよ」

 「あのノートの主は。――誰に助けを求めればよかったのかって苦悩してた。この世界で誰かに助けを求めたなら救いの手は差し伸べられる?」

 「おそらくないわね。極論をいえば本当の意味で誰かが誰かを助けるなんて無理なのよ。私は堂流が亡くなったとき物を食べてもすぐに吐いたし、数分、横になっただけで悪夢を見て飛び起きた。いっそこのまま心臓にナイフを突き刺してほしいとさえ思ってた」