バシリスク退治の正式判定から七日後(九久津がバシリスクと戦って十日後)。
一条はすでに日本を発ち世界各地を周っていた。
「蜂群崩壊症候群。通称CCDもネオニコチノイド系農薬が主たる原因だと判明したようですが……」
若い朴訥な白人男性は悠長に日本語を話しながら手元のタブレットを操作した。
タブレットケースにはいくつも傷があって長年使ってきたことが伺える。
だがそのケースよりも際だっているのはケースを持った手のささくれた指たちだ。
両手の指の皸はひどく端から見ても痛くなりそうなくらいだった。
「ピエトロ――蜂がいなくなったら人類は四年しか生きられない。ってアインシュタインの言葉。あれは本当に蜂がいなくなって人類が滅びることだと思うか?」
「というのは?」
「蜂さえも地上から失踪するなら人類なんて滅んじまえってことじゃねーの?」
「なんか一条さんらしい意見ですね?」
「昨日見たタテガミを捨てたライオン。そして今から見るもの。動物の生態系は確実に変化してるからな」
一条は強硬スケジュールの海外出張で今北極圏にいる。
チャーターした船内の窓から数十メートルさきの流氷をながめた。
眼下には凍えるような群青の海が広がっていてボコボコとした漣が飛沫をあげている。
だがあるところで海水と氷塊とがくっきりと分かれているのが見えた。
それを流氷とは呼ぶにはあまりに大きい氷の大陸だ。
「そうですね。いました。あれです」
白人男性のピエトロが指さした延長線には日本では見かけない大型動物がまるで雪原を食むようにして地に口をつけ咀嚼を繰り返している。
白熊にしては丸みを帯び体の大半が茶色で、ふつうの白熊よりも一回り以上体が大きい。
「あれがグリズリーとホッキョクグマのハイブリッド種か?」
一条は目の前にたしかに存在している希少動物にも驚きはしなかった。
「はい」
「自然交配なんだろ?」
「そうです。環境の変化にともなう生態系の崩壊は著しく顕著です。その熊もそうですがタテガミを捨てたライオンなど昨今は既存とは違う変化をとげる動物が多いみたいです」
「けど近種の自然交配なんてむかしからあったろ? 豚と猪とか……」
「はい。ですが問題はそこではなく生息区域の減少で本来出会うことのない種と種が遭遇してしまうことなんです」
「ああ、そういうことね。けどそれってある意味運命の出逢いってやつじゃね?」
ピエトロは涼し気に微笑む。
「それは良い出逢いですか? それとも悪い出逢いですか?」
「それは動物たちに訊かねーとな?」
ピエトロはまた同じ笑みで――ふぅ。と溜息のような呼吸をした。
それは一条のどこか皮肉的交じりの言葉の対処だった。
「この状況を退化とする向きもあれば進化とする意見もあります」
「動物にとっちゃ進化も退化も関係ねーよな。ただ順応したそれだけなんだろ?」
(ある意味動物のキメラタイプか)
「そうかもしれません。動物たちの外見の変異は人間の視点ですからね。案外本人たちはその変化を喜んでいたりするのかもしれませんし」
「あるいは自分でも気づいていなかったりな」
「えっ、あっ、そうか。動物たちは水辺などで自分を映さないかぎり自分で自分の姿を確認することができないですからね? タテガミを捨てたライオンは体温調節のためだともいわれています。そうなると自分ではすこし過ごしやすくなったなくらいにしか思っていないのかもしれません」
「クールビズってか? それも直接訊かなきゃわかんねーな?」
ピエトロは――ふぅ。さっきと同じように息を吐いた。
意味合いも先ほどと同じだ。
「人は急激な変化を嫌います……まあボクもですけど……」
「時の加速が早すぎるとついていけねーからな? 置いてけぼりにされるような気になるんだろ。最近なら仮想の通貨が急速に発展してるしな金融庁が嘆いてたな。もっとも仮想通貨の呼称も”暗号資産”ってのになったらしいしな」
「あっ、あれについてはボクも正直ややこしくてよくわかりませんので」
「詳しいか詳しくないかじゃなくて多くの人はとり残されることに怯えてるんだよ」
(もしブロックチェーンがノアの方舟だとするなら乗ったやつは救われるのか? 意外とあれはバベルで塔から落っこちましたって結果かもな)
「なるほど」
「人はむかし物と物を交換していた。そこに誰かが貝殻と<肉、魚、果実>どれとでも交換できる発明をした。効率がいいからみんなそれ真似る。そうなったときに初めて貝殻に価値が出てみんな貝殻を欲しがるようになった。同じ理屈で現代はみんな金を欲しがる」
「ああ、そういわれてみれば」
「やってることはむかしと変わらねー。貝殻を使いはじめた過渡期と仮想通貨の黎明期は似たりよったりだ。誰が最初にはじめたのかもわからねーけどな。あるいは神とかそういう種なのかもな……」
「これから先の世代が当たり前に仮想通貨を使うとするなら――むかしは紙幣や硬貨を使ってたんだって。そんなありふれた日常会話が生まれますね?」
「まあ、仮想通貨うんぬんは置いといてもキャッシュレスの世界はすぐそこだろう」
一条はそう返してからスーツのズボンのポケットからどこか王家の紋章のようなロゴの入った赤と白のバイカラーの小さな箱をとり出した。
手にした箱は何カ所もぼこぼこと潰れている。
「ちょっと喫煙室にいってくる。そろそろ向かってくれていいぞ?」
「わかりました。船長に伝えてきます」
「頼んだ」
「特定のポイントでは亜空間を使いますのでジーランディアには早くて十時間後ですね」
「わかった。進入ポイントに到着したらあとは俺自身で亜空を通ってジーランディアの入口までいく」
「はい」
※