日本の地をぎしぎしと踏みしめて歩く者がいた。
その人物の鋭い目つきには空気さえ近づくことを遠慮しているようだった。
歩くたびに黒い軍服の両肩に飾られた勲章がガチャガチャと重い音を立てる。
大柄で百戦錬磨といった体格の者はピタったと歩みを止めた。
二角帽子をさっと脱ぎ体を前方に四十五度ほど折り曲げる。
「お久しぶりです」
その者はとある人物に声をかけ日本式の挨拶であるお辞儀をしていた。
その礼節はすくなからず日本の文化を心得ている者の所作だ。
「おお。これはこれは」
白髭の口元がそう発した。
「升さん。十年前の交流会以来ですね」
「そうじゃったか?」
升は筆の先のような髭をさすりながらぼんやりと夜空をながめている。
視線はしばらくのあいだ虚空から返ってこない。
「あの……空になにか?」
升を訪ねてきた者は思わず声をかけた。
「……ん。いいや、いいや、なにも。それでボナパルテくん。いったい何用じゃ?」
升ふたたびボナパルテへと向き直したが升は夜空の奥にたしかになにかを見ている。
反対にボナパルテにはそれが見えていないようだった。
「お訊きしたことがありまして。日本まできてしまいました」
「わざわざこんな小島にまでかのぅ?」
「いいえ」
ボナパルテは態勢を正してから大きくかぶりを振った。
「日本は小島ではなく神秘の国です」
ボナパルテはいまだ二角帽子を手にしたままでふたたび頭をさげた。
現トレーズナイツの二番手でもありそれなりのポジションにいるボナパルテが敬意を払う数すくない人物が升だ。
「それよりもこんな時刻に申し訳ありません。言い訳ですがヤヌダークからの調べ物を頼まれてこんな夜分になってしまいました……」
「いやいや。爺は一回寝て起きる時間じゃよ。だから朝の散歩をしているところきみとばったりじゃ」
(ま、まだ午後の八時過ぎなのだが……)
「それで神秘の国という言葉にかかっているのですが……」
「なにかのぅ?」
升はそう答えてからボナパルテとはまったく別方向に向き直してくしゃくしゃだった顔を崩した。
見開いた目の端が吊り上がっていて、どこかの仏閣にある鬼の像のような形相をしている。
髭をさする速度もどことなく速まっていった。
「すみません」
ボナパルテもそれにつづき険しい顔をみせた。
升はボナパルテの謝罪にどんな意味があるのかすぐに察した。
「余計な土産まで」
ボナパルテがいったあと――連れてきてしまったようです。と声を細めた。
周囲の空気が夏場のアスファルトのようにボヤボヤと歪み柔らかだった雰囲気が澱みはじめる。
空間がグニャグニャと渦巻きそこに小さな穴があいて徐々に拡がっていった。
アヤカシだけが通る道魔空間が開かれる。
エジプトでピラミッドを守護している石像と瓜二つの顔が姿をみせた。
よく見るとそのアヤカシの鼻の先は大きくガリっと欠けている。
巨体をノソノソと動かし、それはついに日本の地に降り立った。
「これは想定外じゃな。なんの予告なく上級が出るとは? なにかの前触れかのぉ?」
上級アヤカシであれば六角市の結界を物ともせずにくぐってきてしまう。
「僕が今すぐ片づけます」
「いい。いい。わしが殺る」
升はボナパルテを見た、それには同意を待つそんな意味があった。
「ですが僕とこいつには妙な因縁がありまして……」
「それは男が人生を賭すような因縁かい?」
「いいえ。あいつの一方的なものです」
「ならわしに任せておくれ。これが日本のもてなしじゃよ。知らずに踏んだ蟻なら故意じゃなく事故じゃろ?」
「け、けれど」
ボナパルテも日本の侘寂だとでも思い態度を軟化させようとしたがそう簡単に決意できない理由もあった。
ボナパルテが心配しているのはフランスと日本の代理の立場だ。
トレーズナイツのボナパルテが対アヤカシ組織を持つ国連加盟国に入国した場合、自動的に外交特権が発動される。
つまりボナパルテは歩くフランス大使館のような存在になるため日本に出現した上級アヤカシをボナパルテが退治した場合、フランスという国が日本で上級アヤカシを退治したという実績になってしまう。
当然、各国それぞれの上級アヤカシ退治率にも関係するため国境をまたいだアヤカシと能力者の戦闘については慎重にならざるおえなかった。
「政なら鷹司くんに知られるのも具合が悪いじゃろうて」
「ごもっともです」
「この領土は日本。国境を跨いだいざこざは面倒じゃな」
升は己の目に力を込める。
――おたがいにのぅ。
そういった升が目の前いる上級のアヤカシを牽制している。
能力者の極限の集中状態ゾーン。
升はすでにそのゾーンに入っていた。
「しかも相手は上級じゃしのぅ?」
「……国境のことをいわれると返す言葉もありません。どの国でも組織というものは風通しが良とはいえませんから。トレーズナイツの国外での行動は自国の行動と同じ。これは各国上層部の共通認識です」
「きみもフランス当局屈指の戦闘部隊トレーズナイツ一員。面目もあるじゃろうがここは年上の意を酌んでくれぬか?」
ボナパルテの心も揺らいでいる。
そこであることを升に訊ねたあとに、この成り行きの決断を下すと決めた。
「すみません。質問に質問に返すようで申し訳ないのですが僕の質問にお答えいただいてもよろしいでしょうか?」
「なんじゃな?」
「僕はこんな話を聞いたことがあります。イタリア当局のある青年の人事に口を挟んだと」
「誰がじゃ?」
「表向きは鷹司さんとなっていますが。本当は升さんと鷹司さんのおふたりだと思っています。日本政府が他国の人事に干渉するなんてふつうじゃありません。内政干渉が通ったことはもっとふつうじゃありません」
「わしは理不尽に傷つき苦悩してるのが若者がいやなんじゃよ。それに政治的な意味での責任の所在はその若者の父親にあり子どもにはなんの関係もない。もっともその父親とて落としどころという点で責任を被されただけじゃ。忌具保管の責任者としてな」
「レベルファイブの魔鏡【ディオ・スペッキオ】を紛失したのだから当然だと思います。もちろん国家の対面を保つという意味ですが……」
「だから。落ち着くところに落ち着いたんじゃよ」
「単刀直入にお訊きします……おふたりはイタリアにどんな対価を払ったんですか?」
「グングニルじゃよ」
升はなにひとつ隠すことはしなかった。
「ぼ、望具を!? ではグングニルの槍はイタリアに?」
「ああ。イタリアの忌具保管庫の結界の一部になっておる」
「国を動かすほどなのでそれなりの交換条件があったと憶測していたのですが、まさか貴重な望具を譲っていたとは」
「――それくらいは安いもんだ。と鷹司くんはいっていたがね。ちなみにその件の発案者は鷹司くんじゃよ」
(イタリア当局は気づいているのだろうか? 升さんたちにしてやられたことを。イタリアは日本の条件を飲むことで望具を手に入れたと思っているはず。だがじっさいはこのふたりによって忌具保管庫の防御力を上げられた。つまりイタリアの管理では不安だといわれたようなものだ)
「そうですか。真相が知れてよかったです」
(升さん、鷹司さん、堂流、そして外務省の一条。日本には頭のキレる人間が多いな。まあトレーズナイツのトップも同じくらいだけど)
「これですこしは爺を信用してもらえたかのぅ?」
(この人になら任せられる。たとえ対外関係に亀裂が入ろうとも構わない)
「めっそうもありません。お心遣い感謝いたします。きっと現トレーズナイツのトップ。ルイ=ベルサイユも同じ選択をすると思います。では獅身女の相手をお願いいたします」
「ああ。承知した」