升は消えるようにふわっとボナパルテから踵を返した。
草履と地面の摩擦音を殺して淡々と歩く。
夜道にいっさいの音はない。
張りつめた夜気だけがそのゆくすえを見守っている。
ボナパルテは升のうしろ姿をながめていると奇妙な感覚に陥った。
それは現実でもましてや亜空間でもない得体の知れない場所にいるような感覚だった。
地球ではないどこかと呼んでも差し支えない通常が変質した空間。
世界の誕生のときもこんなふうにして世界は創られたのではないかとさえ思える、自分が地球の上に立ちその下で物事が進んでいく感覚だ。
(これが現実でありながら外界と隔離された空間。アウトサイドフィールドか……? ミッシングリンカーのタイプCとタイプGは全員が特異点だからな。そういう始点の者たちはこの現世の因果から離脱することができる。俺たちのようにすべての因果と繋がった者とは違う……)
「朝は四本、昼は二本、夜は三本、これな~んだ?」
獅身女は大きな体をうねらせて、その反動で升の鼻さきに触れる寸前まで顔面を近づけた。
升の白髭が綿毛のようにうしろになびく。
獅身女はむあっと大きく口を開いて、升を丸飲みするようにかじりついた。
だが獅身女は上唇と下唇を密着させられずにいる。
あごに力を込めても込めても升の皮膚はおろか髪の毛にすら到達しない。
升はいまだにその場で――うむ。と熟考している。
そのままの格好で獅身女に目を向けることもしない。
焦燥の感情を抱いたのは升ではなく獅身女のほうだった。
「困ったのう。そのなぞなぞは……」
獅身女は升を食んだまま蹄を振り上げた。
足の裏にはいままで踏み潰してきた人の血や脂の跡がいまだに残っている。
獅身女はその上塗りにでもするかのように升の体を蹄で叩きつけた。
だが獅身女の腕はまるでゴム板に物を投げたようにボワンと反発して返ってきた。
「……?」
升の周囲は升の体を守護するようになにかで包まれている。
獅身女はいっそう焦りの色を濃くして逆の手でふたたび升の体を叩きつけた。
升はなおも考えごとをしたままで獅身女の口腔内に目を向けることはない。
ただ感覚だけで獅身女の蹄を柳の木のようにひらっと捌く。
獅身女は猫のように両手で升の体を乱れ打ちするが、升の手刀によってすべて薙ぎ払われていった。
「思案中の不意打ちを卑怯とは思わんのか? 上級の質も落ちたもんじゃのぅ」
升はなぞなぞの答えなど考えてはいなかった。
「否。世界で量産される負力がより陰険なほうに変質したということじゃろうな。……ゆえに人間そのものの変化と呼んでいい」
升なりの答えだ。
「……グゥ」
獅身女はその忠告を無視したまま口の中から升を――ぺっ。っと吐き出した。
「朝は四本、昼は二本、夜は三本、これな~んだ?」
獅身女は態勢を立て直し升にふたたび同じなぞなぞをした。
今まで目の前は獅身女の舌と唾液と粘膜に覆われた口の中だった升は自分の体の位置が移動したことも気に留めず空の奥を見ている。
升は拓けた視界に光を捕らえていた。
「……明滅が早まっておるのぅ」
升は眼光鋭く獅身女を睨みつけた。
獅身女は急にうしろ髪を引っ張られたように一瞬のけ反る。
「朝は四本、昼は二本、夜は三本、これな~んだ?」
獅身女は升に答えを急かす。
「おぬしその問答は邪道じゃろうて? 先天的、後天的な病も事故もある。それは不可抗力によってじゃ」
「朝は四本、昼は二本、夜は三本はな~んだ?」
獅身女に升の言葉の真意が伝わることはなかった。
「そういう意味ではおぬしだって最初は立派な鼻があったのであろう?」
「朝は四本、昼は二本、夜は三本はな~んだ? さあ、答えろ!!」
「おぬしはその問答に答えられぬ者たちを殺してきたんじゃったな? じゃが今や答えを待つ間もなく上からドスンか? まったくもって下衆に育ったもんじゃ? すべての人間が赤子のときに手足でハイハイしてのちに二足歩行で歩き、晩年に杖をつくとはかぎらんのじゃよ。現に今のわしは”夜にして二本”じゃ。よって答えは人間とはかぎらん。問いそのものが破綻しておる」
獅身女はいまだかつて自分の出すなぞなぞそのものを疑問のテーブルに上げられることはなかった。
獅身女は言葉を失いただただ顔を赤らめていく。
口を開いてもそこからつぎの言葉もなぞなぞも出てこない。
いや升によって封じられたといってもいい。
ただ――ググ……、グゥ……。と言葉にならない声だけがもれた。
獅身女の頬がだんだんと引き攣り欠けた鼻がヒクヒクと上下に動いている。
升の言葉が物理的ではなく心理的な抑制として獅身女を縛りつけていた。
このときの獅身女にはアヤカシが平静を失ったときの変化が見てとれた、能力者たちのあいだでとくに注意すべき状態。
上級アヤカシのブラックアウトだ。
獅身女は升のたった一言によって己のすべてが否定された。
旅人になぞなぞを出しては答えられない者を踏み潰し食らってきた。
だが獅身女は設問そのものを論破され己の存在理由が脅かされたのだった。
「なぞなぞとは誰もが納得するたったひとつの答えを用意することじゃ」
――ピキ。