獅身女の額に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、ひびは頬まで延々と連なっていった。
顔の六割はまるで毛細血管が浮き出たように怒張していて、獅身女本来の面影は消えている。
体からもれる瘴気が煤けて周囲に漂いはじめた。
――ドン。獅身女のうしろ足が地面を蹴る。
つづけて――ドン。もう片方のうしろ足も地面を蹴った。
前足が地を踏むと、もう片方の前足も地を踏んだ。
――ドンドンドンドン。
四肢の律動がつづく。
これはときおり子どもが地面に寝そべってする行為と同じ意味だ。
獅身女の行き場のない怒りはその行動となって表れていた。
いまだに――ドンドンドンドンと地を蹴っている。
「野暮なことはせん。そなたが暴れ疲れるまで待ってやろう」
上級のアヤカシにもプライドはある。
升のその一言が容赦なく獅身女の心を削った。
シンプルな言葉だからこそダメージは大きい。
――ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァ!!
獅身女の叫びがこの世界で有りこの世界ではない空間に轟いた。
その喚きは散逸して瘴気とともに消える。
――と。
升は言葉を切った。
「思ったのじゃが。結果は同じじゃし。一度不意打ちされとるしのぅ」
獅身女は地団駄を踏みながら獅子舞のように首を回してまるで叫びが文字となって宙を飛び出すような咆哮をつづけている。
それは完全な錯乱状態だった。
――ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァ!! ――ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァ!!
「五月蠅いやつじゃのぅ」
獅身女がこれみよがしに体を揺らすと瘴気がもれ獅身女の体表面もボロボロと剥がれ落ちていった。
獅身女は外部の升よりも内なるものと戦っている。
その証拠に獅身女はつねに自分の腹を見ていた。
獅身女の唸り声は己の腹に吸い込まれるように消えていく。
俯き加減の獅身女の口元が砂の城のようにぼろんと崩れ落ちた。
獅身女は瓦解していく表皮を気にせず首を擡げて升を凝視する。
同時に鼻も崩れて獅身女のもとから欠けていた鼻もついには形を失くした。
今まさに蝶が羽化するように黒い獅身女が誕生しようとしている。
「ふむ。限界のようじゃな? 上級のブラックアウト体が暴れ回ってもめんどうだしのぅ」
{{縮地}}
本来、人の歩行とは足を交互に出して目的地までの距離を縮めていく行為だ。
だが今の升は獅身女との距離を瞬時に縮めた。
地には抉れたような足跡が残っている。
升は黒い体表面の獅身女の顔面の真ん前に姿を現した。
眉間にしわを寄せふたたび鬼神のような表情をみせる。
「数字は美しい。とくにアラビア数字はのぅ。零は無であり有。零があることで人類は飛躍的に進化した」
{{零}}
――パシュ。っという音が一度だけ響いた。
誰かがその音に気づいたとしても異音の出所がわからないような位置で、だ。
数メートルはあった獅身女の体が消えていた。
これが静止画ならば獅身女が元いた場所を点線で囲んで現するように忽然と姿を消した。
升がぴたっと着地すると同時に夜の静寂が還ってきた。
そこにはアヤカシが蠢く気配ももれ出た瘴気もアヤカシのいた痕跡はなにひとつない。
獅身女の存在そのものがなくなっていた。
ボナパルテはあまりに一瞬であまりにきれいにアヤカシを消し去った、その神業に思わず息を飲んだ。
(……あれが滅怪領域の退治方法)
この世には菌に対抗する四つのレベルがある。
それは除菌、抗菌、殺菌、滅菌で台所用品などでよく耳にする言葉だ。
滅菌はその中でも微生物などから蛋白質レベルまでを完全に死滅させること。
アヤカシを退治するにもこれと同様の退治レベルがあった。
つまりはアヤカシに対抗する区分だ。
それが除怪、抗怪、殺怪、滅怪の四つ。
除怪は塩や聖水、お札などでアヤカシを追い払うこと。
抗怪はアヤカシに物理的ダメージを与えること、ただし抗怪の場合でも退治に至る場合もある。
殺怪はアヤカシの退治、生き死にでいうところの「死」に相当する。
滅怪はアヤカシが消滅すること、これも「死」に相当する。
同じ退治でも殺怪と滅怪には決定的な違いがあった。
それは退治後にアヤカシの痕跡が残るか残らないかだ。
殺怪の場合ならば戦闘終了後に各国の解析部がその場を調査することができる。
この痕跡によってアヤカシの種類や負力の構成要素等を調べて後世に役立てることができる。
滅怪は痕跡そのものを残さないために解析部でも解析することができない。
つまりはアヤカシを退治した証拠が残らないことになる。
この滅菌にあたるのが升の使った滅怪領域の業だ。
ちなみに沙田のⅡとⅢがシシャを退治したときは殺怪レベルである。
各国の能力者は殺怪レベルまでの退治スキルを求められることが多いが、現実は能力者の絶対数もすくなく、戦闘に向かないサポート系の能力者までもが現場に駆り出されることが常態化していた。
どの国もこの問題の打開策を探っているのが現状だ。