第192話 幻の大陸


 繰は息を飲みながら思った。

 余計な一言で彼女の魔障専門看護師としてのプライドを傷つけてしまった、と。

 それはよく考えればわかることだ。

 一般の看護師にも守秘義務があるのに魔障専門看護師がわざわざパンケーキの写真を撮って――今日はこれ食べました。なんて写真をUPするわけがない、と。

 

 それは自分を含めた寄白家、九久津家、真野家と同じ境遇だと気づくのに遅れた。

 放たれた言葉は撤回すことはできない。

 繰は彼女の職業そのものをけなしてしまったと後悔の念を抱く。

 「ほんとにごめんなさい。無意識だったんです」

 「繰さん。ずいぶんと無防備ですね?」

 繰は喉を鳴らして生唾を飲む。

 戸村の手元が繰の首に一ミリまた一ミリと近づいていく。

 ナイフの刃先がほんのすこしだけ皮膚に触れる。

 (っ、冷たっ……)

 ひやりとした金属の冷たさは繰の体温で徐々に生暖かくなっていった。

 「……」

 「私は看護師です。このナイフをすこし動かして出血させても応急手当くらいはできます」

 「ほんとにすみません。あなたのような人に……すみません」

 「繰さん」

 戸村は一定のリズムで繰の名前を呼ぶことで沈黙させた。

 「……い、いったいなんですか? そこまで怒ることですか?」

 繰はつい反射的に口を開く。

 

 「私がこのナイフをあなたに刺して逃げたらどうなりますか?」

 「えっ……!?」

 「一般論で答えてください」

 「き、きっとここの店員さんが私を見つけしだい救急車と警察を呼ぶと思います」

 「そうです」

 「さ、さっきのことを怒ってるんですよね? 写真を撮るっていう私の失言に」

 「あの一言で看護師が毎度毎度ナイフ振り回していたら仕事なんてできませんよ」

 「じゃあ私を怨んでた? それとも会社? もっと他の理由ですか?」

 「あなたに怨みなんてありません。むしろ同士・・だとさえ思ってます」

 「ど、同士……? じゃあなんで? まさか株式会社ヨリシロうちの株価が下がってる」

 

 繰の言葉がなにかにつまづいたように失速した。

 ――ことな、ら。

 戸村はまったく意に介さずに話をつづける。

 「でも、どうして傷害事件で警察がくるのか考えたことはありますか?」

 「はっ? えっ、えっと。だって人を傷つけたら警察がくるのは当たり前じゃないですか?」

 「私があなたの首にこのナイフを刺して逃げたらどうして警察がくるんですか?」

 「それで私が死んだ場合は殺人。仮に死ななくてもあなたは殺人未遂になるからです。日本、いや、世界中にそういった法律があるからです」

 「そうですね。では、今このシュチュエーショーンがう~ん、そうですね。南米の秘境でおこなわれた場合、日本の警察がかけつけてくれるでしょうか?」

 戸村は拳の力を抜いて今まで強く握っていたナイフをぶらぶらとさせている。

 繰はそこで気づいた。

 戸村にはもう自分に対する殺意などないことに。

 それどころかなにかに対して怒っているわけではなく、もとより自分に危害を加えるつもりさえなかったことに。

 怨恨えんこんを理由に自分を殺そうとするなら、店に入って人気ひとけのないところでもっと・・・殺傷力の高いナイフ・・・・・・・・・で刺せばいいだけだ。

 パンケーキを切るナイフなんて所詮はそのていどの切れ味だろう。

 今、繰の首で揺れているナイフで確実に仕留めるならばそれは「切る」でななく「刺す」ことが正解だから。

 本当に自分を殺すつもりなら戸村は最初の動作ですぐナイフを振りかざしていなければならない。

 

 「こないでしょうね」

 「ですよね。南米ですものね」

 「でも私が帰国してからその事実を警察に伝えて脅迫された証拠があれば戸村さんが入国しだい日本警察は捜査を開始すると思います」

 戸村は首を傾げてから一度うなずき繰の意見に同調してナイフをテーブルにコトンと置いた。

 「すみません」

 「戸村さんいったいなにを?」

 「繰さん完璧な答えです。私があなたを呼び止めたのは」

 「えっ? 私を呼び止めた理由?」

 「この世界は一般の人が思ってる以上に終焉おわりが近いということです」

 「ど、どういうことですか? というかあなたは何者ですか? 本当に魔障専門の看護師ですか?」

 繰の口からつぎつぎと疑問符が放たれた。

 「ジーランディアについてどれくらいご存知ですか?」

 戸村は繰の問になにひとつ答えなかった。

 それどころか問に対して問で返してきた。

 だが、繰はそこに戸村の真意が見え隠れしていることに気づく。

 「え、えっと? ジ、ジーランディアですか?」

 

 (ヤヌと話したときにいってたっけ。今、日本の外務省が調べてるって。やっぱりこの人ただの魔障専門看護師じゃない。ジーランディアって深く考えたことなかかったな。でも、この状況からするとあの場所ってAランク情報なのか? だとしたら戸村さんは自分のいいたいことしかいわないだろうな)

 「はい。ジーランディア大陸です」

 (私が知ってる情報だと。かつて地球に存在した幻の大陸でその近くでアンゴルモアの大王が具現化した場所。戸村さんのいう終焉おわりが近いってそれはつまりカタストロフィー? アヤカシの様子が最近おかしいのもそのせい? それとも蛇?)

 「この世界には過去にあったとされる大陸が他にいくつかあります。アトランティス大陸、パシフィス大陸、ムー大陸、メガラニカ大陸、レムリア大陸。またこれとは別種ですが創生のときにあった超大陸のパンゲア。ほかには北半球のローラシア大陸、南半球のゴンドワナ大陸があります」