第195話 いつものような「また明日」  


戸村はいいたいことを伝え終えるとテーブルの上でおもむろに転がっていたフォークとナイフを手にとった。

 手元の紙ナプキンでそれらを何度か拭いてから、すでに冷め切っているパンケーキの皿を手前に引き寄せた。

 銀色の四つの先端が茶色の膨らみに沈んでいく。

 時間が経ってすこし乾いたパンケーキをベトついたシロップとクリームに絡めて口へに運ぶ。

 「うん。冷めても美味しい」

 「戸村さんどうしてあんな?」

 繰はその疑問をそのままぶつけた。

 (話をあんな遠回りさせなくっても、今のことをそのまんま話してくれたら私だってすんなり聞けたのに)

 「ナイフで脅すようなまねを? ですか?」

 「はい」

 「話を早く進めたかったらと、繰さんの記憶に残したかったからです。後者の意図のほうが強いですけどね」

 「私が聞き入れないとでも?」

 「いいえ。繰さんなら私の話を受け入れてくれるとは思っています。ですがそれでも時間がかかってしまう。思ってるより事態は深刻ですのでこのような手段にでてしまいました」

 「だからですか?」

 「突拍子もない話をするなら突拍子もない行動をしないと。だから繰さんに非日常にきてもらしました。これを心理学では正常性バイアスと呼びます」

 「正常性バイアス?」

 「自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりすることです。災害時にこれによって逃げ遅れてしまうかたも多くいました。現実の中に現れた非日常はすぐには受けとめられないんです。さっきの繰さんも驚くほどに無抵抗でしたよね?」

 「あっ、はい、いそうですね。そういえばアヤカシが出現した現場にいっても驚かずにきょとんとしている人もいました」

 「そのニュアンスです。私があんな行動をしなくても繰さんは話を聞いてくれたと思います。ですが、今はナイフを突きつけられてまで聞かされた話。そんなふうに心に残ってるんじゃないですか?」

 「いわれてみればそうですね」

 繰は同意しながら過去にあった非日常の場面を思い返す。

 「アヤカシを前にしても悲鳴上げて大騒ぎする人って案外すくなかった気がします。この状況はいったいなんなのかって多くの人は疑問符を浮かべてるんですよね」

 「異変っていうのはなんとなく前触れがあってから起こる。余震があって本震がくるみたいな思い込みがありますからね」

 戸村はパンケーキをさらに細かく切った。

 「はぁ、でも戸村さん。そこまで急ぐようなことなんですか?」

 「そこなんですけど私も確証がないのですみません。ただ、この大きくて小さな世界・・・・・・・・・で何者かが暗躍している気がするんです」

 「えっ!?」

 

 (そ、それって私が思う蛇。戸村さんもなにかの気配に気づきはじめてる。ここで私とヤヌが話した蛇の話をすればやつの存在を証明する後押しになるかも……)

 「あの」

 繰はそう口を開く。

 (私、自身がアンゴルモアの説明で沙田くんにいったのに――自分の知らないところでそんなふうに戦ってる人がいるってことよ。今のこの時間だって誰かが担保のこしてくれたすこしの余暇きゅうけいじかんなのかもしれないし。――たった一週間でその言葉を頭の片隅に追いやってしまっていた)

 繰は視線わずかに左右にずらして、店内の内装を見た。

 (いいえ、今、こんなお店にいるから……。なんとなくこんなふうに楽しい時間に居ればその最中はなにも起こらないって思ってしまう。神様は見逃してくれるんじゃないかって……。堂流が亡くなったあの日だってなんの変哲もないただの日・・・・だったのに。神様は人の予定なんてお構いなし。十年の年月は私をこんなに変えてしまったんだ)

 「はい、なんですか?」

 戸村は繰の呼びかけに耳を傾けた。

 「私にも戸村さんに似た感覚があるんです」

 「どんな感覚ですか?」 

 「これはあくまで私の感覚なんですけど急がなきゃいけないそんな焦りです」

 「よかった。わかってもらえて」

 戸村はとたんに表情が柔らかくなった。

 

 「明日もまたパンケーキ食べたいな~。あっ、でもダイエットしなきゃ。せめて一週間後かな~」

 すこしはしゃぎながらまたパンケーキを一口頬張る。 

 数秒前とは打って変わって迫りくる緊迫感がまた日常に溶けていった。

 繰は蛇についての話をしようとしたところ話の腰を折られた形になった。

 (そう、そうよ。この日常が突然終わるなんでどうしても思えない。戸村さんも常にあんなピリついてるわけじゃないのね? ってあんな感じで毎日過ごしてたら体も心も持たないか……)

 「でも、一週間後に世界があるなんて保証はどこにもないんですよ」

 戸村のフォークがまたパンケーキえものを刺す。

 (と思ったけど違う。この人は常に危機感を持っている)

 「一週間後なら世界はありますよ絶対。一万年後ならわからないですけど」

 (私のその言葉は間違ってるかな? 一週間後に世界が滅亡なんてなおさら考えられない)

 「う~ん、繰さん。それは人それぞれの感覚ですよね? 二週間後に世界はあるけど九千年後には世界はないっていうのに近いですよね?」

 獲物を刺したままのフォークは皿の上で無言で横たわっている。

 「そう、そう、そういう感覚です」

 (どう考えても一週間や二週間で世界がなくなるなんて思えない)

 「きっとそこに当てはまる数字なんてどうでもいいんですよ。結局近日中に世界は消滅くなることはないけど遠い未来にはもう世界は消滅いだろうってこと」

 「ああ!! そ、それです!! まさにそれです!! 戸村さんの考えは違うんですか?」

 戸村は目の前のグラスを掴んでテーブルのきわギリギリに置いた。

 寝そべったフォークの柄とグラスの側面が微かに――ガチャ。っとぶつかった。

 「テーブルの上の飲み物に手を伸ばす。その数十秒後には家がない。そんなこともあるんですよ」

 「なにかで被災されたことでも?」

 「子どものころにね。ほんの数十秒でぶっつりと現実が遮断されたそんなことが……。だから今のを選んだのかもしれません」

 (戸村さんもなにかを抱えてるんだ)

 繰は上手く伝えられなくてもいいから蛇の存在をできるだけ多くの関係者に知ってもらいたいと思いヤヌダークと話した蛇の話を戸村にした。