「霞おかえり。それに美子ちゃんもどうぞ」
優志は右手に持っている画用紙とは反対の手で手招きをした。
「優は?」
霞が玄関から家の中をきょろきょろ見ていると、優はまたタオルを手にバタバタと廊下を走ってきた。
「優。ごめん、ママのこと待ってたんでしょ? 優」
優は霞をすりぬけて寄白に手をだした、寄白もその指先にトンと触れると優は声をだして笑ってから優志の影に隠れた。
「優。ど、どうして?」
(優くんにはもう霞さんが視えないのか? タクシーに乗るルートを外れてるのもそうだけど霞さんはもう……)
霞は動揺を隠せずに手を震わせていた。
「霞さん。これはわりと知られた話なんだけど多くの子どもは両親の家系の祖先たちに守られるんだよ。よくいう守護霊っていうやつさ」
「じゃあ、私か優志さんのご先祖様が優を守ってくれてるの?」
「そう。ちょっと専門的にいうと希型星間エーテルってのが守護霊となって血縁の子どもを守護るんだ。子どもがときどき迷子になって命のリミットギリギリ発見されるような話があるだろ。あれもたいていその子の守護霊の力によるものさ。小型の獣なら簡単に追い払える」
「あれにそんな理由があったんですね?」
「そう。まあ私がなにをいいたのかっていうとね。優くんを取り巻いている希型星間エーテルが霞さんを遠ざけはじめた」
「ど、どうしてですか?」
「それはすでに優くんの守護霊にとって霞さんが加害認定されてるからだろう」
「どういう意味ですか? 私が優に危害を加えるとでも?」
「想いとは別のところにある問題で霞さん自身が悪ってわけじゃないんだよ。肉体を亡くしてしまった霞さんの影響を受けないように守護霊が先回りして優くんを守護ってるのさ」
(それって両親が健在ならそれほど頼もしいことはないんだけどね)
「私が意図せずとも優に悪影響を与えてるってことですか?」
「そう。”赤”ちゃんの生命のエネルギーを徐々に奪ってしまうんだ」
寄白の言葉に霞の動きが止まり、二歩、三歩と後ずさっていった。
「私、優の前から姿を消したほうがいいってことですよね?」
「霞」
ずっと黙ったままだった優志が手に持っていた画用紙を霞の前に掲げた。
「これは優が描いたおそらくパパとママだ。僕らの頭から手と足が生えてる」
「優がこの絵を描いたの?」
「そう。優はもうこんなこともできるようになったんだ。なんでも子どもが描くこれを頭足人と呼ぶらしい。優のクレヨンは不思議とオレンジ色の減りが早いんだ。きっと霞に似て優もオレンジが好きなんだろうね? これってどんな名画よりも名画だと思わないか?」
「うん」
霞はオレンジをハンカチを顔に当てながら涕をすするように答えた。
「ほら霞。やっぱりきみは今日もオレンジ色のハンカチを使っている。優が持っているこのボロボロのタオルも色褪せる前はオレンジだったよね?」
「うん。そうだった。優はそのタオルがあるとすぐに寝てくれたね? 優志さん優はこれからどんな子に育つかな?」
霞は試すようにまた優に向かって両手を広げた。
心のどこかで自分に駆け寄ってほしくもあり近づかないでほしかった。
「優にはもう私が見えてないんだね」
優は無反応のままで優志の足にしがみつき宙を泳ぐオレンジ色のハンカチを見ている。
「霞。優はきっと優しい子になるよ。だから優って名前をつけたんだろ?」
「それもあるけど。優志さんの”優”からもとったじゃない」
(名は体を表す。両親は二十六文字のアルファベットの羅列じゃない漢字に想いと願いと祈りを込める)
「そうだけど。そうなると優に反抗期なんてないかもしれないな?」
「私はちょっとだけ反抗する優も見たかったかな。でも――うるせーばばあ。とかいわれたら私、死んじゃうかもしれない……な……ってもう死んでるんだっけ? 私?」
(霞さんもようやく自分の死を意識しはじめたか)
「――もう中学生だからお母さんとは一緒にでかけない。くらいにしておこうかな」
「それなら僕でも通った道だ。なんだかおかしな話だけど親に反抗することで両親が幸せになれることもあるんだね?」
霞は涕を二回すすった、またオレンジ色のハンカチが濡れていく。
「もう、お別れなんだね? 私たち?」
「霞。ごめん。優を守護るためなんだ。ごめんな。僕だけならいつ死んでもかまわない。でも優だけは守ならいと」
優はまた宙に浮かんでいるオレンジのハンカチに目を奪わそのハンカチに手を伸ばした。
瞬間優が握っていたボロボロのタオルを落とす。
優志はおもむろにタオルを拾い上げて優に渡すと優はまたそのタオルを握りしめた。
「優はこんなにボロボロになったタオルをいつも持ち歩いている。母親の匂いがついたものだからさ」
「そのタオルは私がベビーベットに置いておいてミルクを飲ませるときに肩にかけてたからね」
「優はこのタオルがあるとよく眠ってくれる。きっと安心するんだろう」
「私のことを見えなくても私の匂いはわかるかな? でもどうして優には私が見えないのに優志さんには私が見えてるの?」
「ああ、それはほら」
優志は絵を脇に抱えて手のひらを広げた。
なかには黒い十字架のイヤリングがちょこんと乗っていた。
「美子ちゃんに”いみぐ”とかいう物の力を借りて僕にも霞のことを視えるようにしてもらったんだ」
「寄白さんっていったい何者なんですか?」
霞がふと寄白に目をやった。
「私はいちおう六角市に伝わる”使者”っての」
「シシャってあのシシャですか?」
「そう。六角市の人間ならだいたい知ってると思うけどその”シシャ”」
「霞。美子ちゃんは六角市の中で霞みたいになってしまった事件なんかを解決してるんだってさ」
「だから病院の外にいた私に声をかけてきたんですね? たしかシシャって六角市の十五歳から十八歳までの中にひとりいるんでしたよね? シシャってそういう人助けをする人のことだったんですか? ああ、でも私はもう人じゃないんだった。優志さんやっぱり私はもう消えなくちゃだね」
「僕だってずっといたかったさ」
「……優志さん」
「霞。僕はきみがいたから自暴自棄にならずにすんだんだ。なにをやってもうまくいなかなかった僕にはきみが救いだった……」
霞は玄関のシューズボックスに触れ、さするように何度もなでている。
「この家に三人で住れたのもほんのすこしだったね。優志さん。また来世でも私と結婚してくれますか?」
「もちろんだ。僕はいつも”明日”のためにって”今日”を捨てて生きてきた。気づけばいつのまにか人生の大半を捨てていた。漠然的だけどいつか自分はなにかになれるって思ってたんだ。自分探しってさ、結局自分を持ってる人には敵わないんだよ。よく考えればそうだろ? だって自分を”探してる人”と”持ってる人”だ? 探してちゃなんにもはじめられない。結局僕がなれたのはしがないサラリーマンさ。だから僕はきみに救われた」
「優志さん、そんなことなかったよ。優志さんは立派に自分を持った人だったよ」
「霞わからないんだ。どうしてきみみたいな女性が僕を選んだのか?」
「どこが好きとか嫌いとかそんなことを越えたものよ。ふとしたときにふたりで同じ方向を見るとか。同じ物に手を伸ばして指先が触れたりとかそういう感覚的なこと」
(……組紐のように因果線で結ばれた、ふたり、か)
寄白は神父のように静かにふたりを見ている。
それでもときどき優に視線を送ると優は口を開けて笑みを返した。
「僕はきっと前世でも今世で霞と出逢う約束をしたんだと思うんだ。だから今世でも霞に出逢えた」
「ありがとう」
「だから来世だってきっときみを探す」
寄白はその誓いに立ち会い来世の邂逅を願う。
「ほんとに?」
「ほんとうだよ。何度生まれ変わったって霞だけを探すから」
霞は柔らか笑みをたたえていた。
「優志さん。こんなことになってごめんね」
「いいんだ霞。だから来世もその薬指をまた開けておいてくれないか? 来世こそは僕と霞と優の三人でずっと暮らそう」
「優志さん。そのプロポーズは来世でも有効なのかな?」
「何度生まれ変わってもどこにいてもそれは効力を持ちつづける。きっと」
「どうしてわかるの?」
「世の理の中で僕がずっと想いつづけるのは霞だけだからさ。霞は僕の理想の人なんだ。僕は霞に会う前は理想を追いかけて人生の大半を捨てたんだ。理想がすぐそばにあるなら迷わずに手を伸ばす」
「それあの日のプロポーズよりも心に刺さったかもしれないな。優志さん、じゃあ優をお願いね」
寄白のイヤリングによって目視できている霞の足元から徐々に透過していく。
優はまたオレンジ色のハンカチをながめている。
霞の体はもう半分以上消えていて、胸元を過ぎたあたりから二の腕も一緒に薄くなっていった。
すぐに肘から手首が消えていく、そのまま手が消えたと同時にオレンジ色のハンカチが玄関の三和土にぱたっと落ちた。
「ンママ」
霞は優がそう発したのをきいたと同時に、霞は驚きながらもどこか嬉しそうな顔ですーっと消えていった。
寄白は三和土のハンカチを拾いあげ埃を払ってから優に手渡す。
(霞さんは自ら成仏えてくれた。むしろ今の霞さんはそれを望んでいたように思う。未練を残してこの世に留まってしまったのはきっとあの世で難産だっただけさ。今、霞さんは待望の赤ちゃんとして生まれてることだろう。まあ、これはあくまで私の死生観なんだけど。結局、生まれるってのは死の付与でもあるんだよ)
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