電子機器が禁止の院内で若い女の子が持っているスポーツ新聞の見開きには、赤で囲まれた黄色い文字の「啓清芒寒」がある。
「先生。これどうやって持てばいいの?」
慣れない手つきで新聞をめくる角からぐしゃぐしゃと崩れていき、その女の子はついに診察ベッドで新聞を広げはじめた。
今ではスラっとした手に戻った指先で新聞の右端をつまむ。
ただ右手の手の甲にぼこっとしたひとつの膨らみがある。
「あっ、もう大丈夫。こうやって観るからいい」
「そう。ふだん新聞なんて読まないもんね?」
「まあね。おお!! これが啓清芒寒か~!!」
「けいせいぼうかん?」
「只野先生知らないの?って昨日の今日で知ってるわけないか」
「なにかの四字熟語?」
カルテに向かっていた只野は黒い丸ぶち眼鏡の縁を触りながら思わず訊き返した。
「そうだよ。新四字熟語。これから流行るの間違いなし。二十四節季のなかの啓蟄、清明、芒種、寒露の頭の漢字ひとつずつとって啓清芒寒。ワンシーズンの新しいユニットなの」
「ああ!! アイドルの、ね。僕ちょっと芸能界のことは疎くて」
「それでも只野先生ワンシーズンは知ってるんだよね?」
「それくらいはね。アスちゃんのいるグループだし。四季だったっけ? 僕でもその四人は知ってるよ。あっ、そっか二十四節季も季節に関する名前だね」
只野はようやく座ったままでアスのいる診察ベッドに向き直した。
「そう」
アスは人差し指を立てる。
――よ!!
もったいつけた語尾が響く。
「芸能界ってだいたい三か月前には計画がはじまってるんだよね~。ドラマとかソロデビュー企画とかさ。もっと前から動いてる企画もあるしさ~三寒四温プロジェクトも。あっ!? これまだ内緒のやつだ。私ね、啓清芒寒の選別にずっと前に落ちてたの。そのころかな、ちょうど活動休止したの。結局、復帰するはずだった六角市のライブにも出演れずじまい。この新聞の一面に私が載ってる世界線もあるのかな~。ぴえん通り越してぱおん」
「そういうこと、ね」
「この啓清芒寒ってさ、ユニット結成時からアニメ主題歌と献血のCMが決まってて好待遇なんだよね~。ああ、推されてるな~って外野から見ても思うよね」
「人気アイドルが献血を呼びかけてくれると若い子にも献血が広まって医療業界も助かると思うよ」
「はぁ……」
アスはため息をつく。
「こんな私でも献血のCMに出演たら誰かを助けられるのかなってちょっと思ったりもしたんだよね。運営が啓清芒寒にどれだけ力いれてるかまるわかり。推されないってほんと地獄」
「アスちゃん、治療中にもいったけど、今は抗呪剤でなんとかなってる。基本的に病み憑きは弱った心が傷口みたいなもの、とくにアスちゃんが罹ったタイプの病み憑きは……」
只野の呼びかけにアスは右手の甲の膨らみを隠すように左手を添えた。
「先生、わかってたんだ。これ?」
アスは――ガサっと音立てながら新聞を閉じた。
「当日僕が下した診断は呪詛性の病み憑き。ただ事態はもっと複雑な魔障だった。アスちゃんに呪いをかけていたのはアスちゃん自身。いわゆる自傷タイプの呪い。心因性のなかに括られる自呪型の病み憑きで、呪詛性と誤診してしまうくらい判断が難しい。診断名は【仮面性・自呪型・病み憑き】」
「っていっても先生って総合魔障診療医なんだもんね?」
「……」
只野はなにもいわずに無言でうなずく。
「でもなにもいわないんだ?」
「ちよっと分野が違っててね。一般の医科にもコンサルできるけど。アスちゃんの考えを訊く前に僕の一存で紹介はできないから」
「じゃあ内緒にしておいて。いつかそのときがくるまで。総合魔障診療医でも強制的には無理なんだよね?」
「そうだね。ただ親御さんには……」
「お母さんにもいわないで。ただでさえこんなになって迷惑かけちゃってるんだから。親子の夢なの。お母さんが叶えられなかったものを私が背負ってるの」
「わかった。そこはアスちゃんの意見を尊重するよ」
「ワンシーズンのみんなって細くてさ、食べても太らないんだよね? どんな体してるんだろ? それにエゴサするとまず私の悪口はだいたいガタイがいいとか肩幅が広いとか。私の体だけ、みんなと違って出来損ないに思えた。いつから罪悪感を覚えるようになった。食べることに……。食べて太る私は失敗作だって自分を責めた」
「そして辿りついたのが過食嘔吐だね? 国立六角病院に救急できたときは病み憑きの急性期で四肢の浮腫に紛れていたけど。手の甲の膨らみは典型的な吐きタコだ」
「私。病み憑きになってるときのことなんにも覚えてないんだけど、スマホの支払い見てみてびっくり。ちゃっかりクーポンまで使ってるの」
アスは只野から目を逸らし睨むように壁を見ている。
「それが病み憑きっていう魔障の症状なんだよ。症状が表面化するまで他人は異変に気づけない」
「店員さんは店員さんで単品メニューをバラバラで頼むよりもお得な物だからっていくつかをセットメニューにしてくれててさ。私どんな顔してそのメニュー頼んだだろ? 食べ物に執着した鬼みたいな形相かな?」
「急性期症状から逆算すると、そうだな、そのころはきっと、アイドルにいそうなくらいかわいい顔してたんじゃないかな? まだ身体の変化は現れてないはずだから」
「先生ってそんなこともいうんだ!? あっ、そっか患者相手だからお世辞のひとつもいわないと。だよね?」
アスは目から自然に涙が浮かんできている。
「私、気づかないところで人の優しさに触れてた。あっ、これは違うの」
アスは慌てて身振り手振りで否定した。
「あの店員さんがセットメニューにしてくれたことだよ。何十円かお得じゃん」
「セットメニューってそういう仕組みなんだ。僕、そういうのにも疎くて」
「っぽいよね?」
アスはそういったきりうつむいた。
「誰かを笑顔にしたい。そんなふうにしてアイドルになったはずなのに。ますますなんのためにアイドルやってるかわからなくなっちゃうな。先生はすごいですよね?」
アスの言葉尻が敬語に変わった。