視線が宙を彷徨う。
カラースケルトンのムシピンで壁に貼られているのは家庭用プリンタで印刷した新聞や雑誌のコピーの印刷物だ。
なかでもとくにアスの目を引いたのは金色の額縁に入った【救偉人”前”の称号を与える】という賞状と五百円玉ほどの大きさの青い五角形の勲章だった。
「なにいじん? 前の称号?」
「えっ? ああ、救偉人、漢字は前だけど前って読むんだよ」
「ふ~ん。それに診察室いっぱいの貼り紙」
「ああ、これはスタッフが貼ってくれてるんだけど」
「先生、求められてるね……。先生はどうしてその総合魔障診療医ってのになったの?」
アスの言葉はふたたびフランクに戻った。
ただ指先だけは今もなお壁の貼り紙を追っている。
「ああ、このネームプレートにもあるけど」
只野は胸にある自分の名前をアスに向けた。
「僕のフルネームは只野或斗っていうんだ。この或斗は誰かを助けられるようにってドイツ語の医者、Arztから名づけたらしいんだよね。カルテはむかしドイツ語で書かれてたし、そもそもカルテ自体がドイツ語だし」
「先生は生まれながらにして医者になる運命だったんだ?」
「どうなんだろう。でも、日本はとくに子どもの名前に意味を込めるよね? アスちゃんの本名はたしか」
「明日美。明日も美しい女の子でいられるように」
「良い名前だね。アスちゃんの両親だって、きっと」
「こんな醜い私に明日なんてあると思う?」
アスは只野の言葉を遮る。
「いちばんひどい状態の私の写真見たよ。ほんと欲求のぜんぶが食欲になったみたいだった。カメラ目線で食べ物にかぶりついててキモすぎ」
(アスちゃんは病み憑きになる前から鏡を見ない。いや見れないってお母さんがいっていた。醜形恐怖。それはバラバラになった自尊心によるものだ。それでも自分で自分に呪いをかける娘。鬱憤の矛先をけっして他人には向けない。それはいわば責任転嫁をしない、いや、誰のせいにもできず、誰も責めずに独りで抱えてしまう娘)
「アスちゃん。よくきいて。自分の怒り辛さ苦悩を内に向けるのは優しい人なんだよ。それを外側に向けると他人を巻き込んでしまう。それこそ誰かを巻き沿いするような凶悪な事件に発展する。だから自分を傷つける人は他人を傷つけることのできない優しい心の持ちぬしなんだ。刃を己に向けるだけですでに誰かを救ってる」
「もうなんにもわかんない。先生はじっさいに総合魔障診療医になって誰かを助けるじゃん!! しかも並みの総合魔障診療医じゃわからないっていう私の難しい症状を診断したんでしょ!? こんな勲章飾ってる人に私の気持ちがわかるわけないよ。ずるいよ。才能かを持ってる人のそういう言い訳」
「僕だって総合魔障診療医なろうと思ってなったわけじゃないんだ。僕が総合魔障診療医になったきっかけはアスちゃんと同じで罰当りって魔障を頭に受けたことが発端。それを四仮家元也の先生に助けられたんだ。僕はただのアールツトで飛びぬけた才能なんてない」
(アスちゃんは知らない。僕は魔障を診てるけど。超能力を持つ能力者じゃない。どんなに望んでも手に入らない生まれ持った才能、痛いほどわかるよ。僕は総合魔障診療医でありながら国立六角病院の診殺室に入ったことがない。部屋の中がどうなっているのかも図面と写真でしか見たことがないんだ。九条先生ならできる診殺を僕はできない)
「アスちゃん。きみのSNSを見たよ。いまだにきみを心配してるファンが大勢いるじゃないか。きみを応援してるきみの復帰を待ってるファンがたくさんいる。僕がSNSのをやっても誰も見向きはしない。せいぜいここのスタッフがお情けで見てくれるだけだろう。損得勘定なく好意のみで応援してくれ他人を持てるのは人前に立つ人の特権だ。僕ができないこともアスちゃんならできる。最近の言葉だけど”異能者”って言葉があるよね? あれって僕からすればすべての人が僕にはない能力を持った異能者なんだ。もちろん僕にはない能力を持ったアスちゃんも異能者。なにも超能力を持った能力者だけが異なった能力の者じゃない」
「それって。私、褒めらてる?」
「そうだよ。アスちゃんのSNSで献血呼び掛けるのはダメなの? それで間接的に救われる人がいるんだ。たったひとりだけでも行動に移してくれる人がいればやった意味がある。そもそも僕には何万人に向かっていっせいに協力を呼びかける術はない。きみが投稿する一回の一文で何万人の目にそれが映る」
アスは目から鱗が落ちたように唖然としていた。
「えっ? ハッシュタグつけて?」
「ハ、ハ、ハ、ハッシュタグ?」
只野は声を上ずらせる。
「そう、ふふ」
アスは噴き出すように笑う。
「そっか~先生知らないか~。音楽のシャープみたいなマークだよ」
「と、ときどき見るような見ないような。いや、僕、やっぱりそういの疎くて」
「でも、先生、それ良い案。#に献血にいこう。これに#ワンシーズンを足せば。献血にいってくれる人はいると思う」
「ほんと? 今は献血してくれる若い子が減ってるから助かるよ」
「献血の呼びかけは啓清芒寒だけの特権ってわけじゃなかったんだね!? 啓清芒寒はあくまで献血のCMに出演てるだけ。だもんね」
アスはくしゃくしゃと髪をかき上げながら、天井を見て豪快に――あー!!と息を吐いた。
「そうだった。うん、そうだった。私、アイドルになってそれをやりたかったんだ。歌とダンスじゃまだできないけど誰かを笑顔にしたかった。なのに私自身が鬼みたいな顔してたらダメだよね?」
(人は誰かの声援でまた歩き出せる。そして、また違う誰かを応援できる)
「つい一秒前までのアスちゃんのように蹲って動けなくなった人に一歩進む勇気を与えられる、と思うよ」
「先生、私。すこし、頑張れる、かも」
「うん。すこしずつで、いいと思うよ」
※
心ばかりの笑顔をとりもどしたアスが診察室からでると、外で待機していた看護師が声をかける。
「アスちゃん、終わった?」
「看護師さん。先生とふたりにしてくれてありがとう」
「いちおう魔障専門看護師の付き添いが原則なんですけどね。まあ、病名が病名で話すことも対話療法だから」
アスはその看護師のうしろの廊下を歩く入院患者に目を奪われる。
「あれ? あ、あの人」
「えっ、誰?」
看護師もうしろを振り返った。
「ああ、九久津くん。知り合い?」
「くぐつ? 有名人?」
「えっと、まあ、知ってる人は知ってるかな、って人」
「へー、メンズの読モ的な? どこかで見たことあると思ってたんだ」
アスはそのまましばらく考え込む。
入れ替わるようにして只野が診察室からでてきた。
「これ、お願いします」
看護師にカルテを手渡した。
「あっ、はい」
アスはそんな只野に気づくことなく、いまだに頭を悩ませていた。
「どこだっけな~。わりと身近な気がするんだよな~。あっ!? そ、そうだ。ミアちゃんのスマホ!! ん……? 先生いたんだ」
「えっ、うん、今、きたとこ。みあ? その、みあちゃんもアスちゃんと同じグループ?」
急に話題を振られた只野がしどろもどろで返した。
「そうだよ。同じワンシーズンのメンバー。そっか六角市出身っていってたな。彼女も彼女で悩んでるのさ。あんな美人さんなのにフロントメンバーになれないんだよ。たしか、あの男の子に助けられたっていってた」
「九久津くんに?」
(じゃあ、能力でアヤカシから守ったってことかな?)
「あの男子、先生も知ってる男子なんだ? 間違いないよ、あの男子。でも先生、勘違いしないでね。ミアちゃんが持ってた写真はたくさん生徒が集まった教室内での集合写真だから。黒板に数字で七なんとかって書いてあったな。学校行事かな?」
(七、か。六角第一高校では七不思議製作委員会でアヤカシの注意喚起してるからそのときのだろうな)
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