「官房長官。各所に伝え終わりました」
「ごくろう」
「いえ」
秘書官は執務室のドアの前で鷹司の言葉を受けたあとクルリと振り返った。
――さあ、どうぞ。と手を出す。
――鷹司さん。お久しぶりです。
秘書官の手にエスコートされて執務室に顔をのぞかせたのは黒いスーツを着た穏やかそうな男だった。
聡明が似合うその男が鷹司に笑みを返す。
一日の疲れが滲んでいる鷹司はその表情を崩さないまま驚いた。
「どうしてここに?」
座したままの鷹司が問いかけた。
男はスーツのポケットから一般的なポイントカードのサイズでそれよりもはるかに厚みのあるカードを自分の目の前に掲げる。
カードには「ID」の文字とともに十以上の数字とアルファベットが並んでいた。
カードの右下には「Y」と「L」のアルファベットが合わさったピクチャーロゴがある。
ロゴのすぐ下には【Y-LAB】と【YORISHIRO LABORATORY】のテキストロゴだ。
名前の欄にはあまり見かけない漢字がある。
正確にはよくる漢字がこんなふうに並んでいることが稀だった。
【子子子 哮】
「子子子」の上にはふりがながあって「こねし」となっている。
「哮」のふりがなは「たける」。
「子子子哮」の名前の左脇には「魔獣医」の文字が見てとれた。
「鷹司さん今朝、九条先生と電話で話しましたよね?」
「ああ、じゃあ九条がY-LABに連絡してくれたのか?」
「はい。俺はちょうどそのとき魔獣や幻獣の遺伝子解析の最新機器の見学してる最中でした」
「それでそのあとわざわざ首相官邸まで足を運んでくれたと?」
「そうです。日付では今日付けでY-LABの職員なんで。あの機器は鷹司さんが一肌脱いでくれたと聞きました」
「それも私の仕事だからな」
「ありがたく使わせてもらいます」
子子子は一礼する。
「そのあとに施設を見学してから地元の宮司からの依頼だという仕事をこなしてから上京にきました」
「すまないな」
「いいえ。でも、さすがに首相官邸は」
子子子はIDカードを仕舞その代わりにサファイアのように青く透明な五角形のバッジをだした。
中央には「陣」という刻印がある。
「これでも入れませんでしたね」
「当たり前だろ。首相官邸は救偉人だって特別待遇にはならん」
「本来、救偉人ならアヤカシ関連の施設の七割は無許可でも立ち入ることができるんですけどね」
「首相官邸は残りの三割だ。そもそも救偉人の勲章を贈ってるのは国家だということを忘れるな」
「そうですね。でも身分を証明するのも大変でしたよ」
「救偉人の魔獣医はなかなか存在からそうでもないだろ?」
秘書官はそんなふたりの親しさを察し踵を返す。
――子子子先生。どうぞごゆっくりと。
「はい。ありがとうございます」
「子子子。まあ、中へ」
子子子は救偉人の勲章をしまいながら物静かに鷹司の机とへと近づいていく。
子子子の目に鷹司の机の上で散らばっている書類が目に入った。
そこにはG7のアヤカシ対策オンラインサミットで使った書類やメモも混ざっている。
鷹司は子子子の視線がその方向に向いていることに気づくが隠す素振りもない。
子子子も意図的にそれを凝視しているわけではないが、鷹司は逆にその書類を机の上で広げた。
「ああ、さっきまでオンライン会議でな」
「知ってますよ。だから俺外で待ってたんです。それになんか騒がしかったですね?」
「今日から正式にY-LABの職員になったのならおまえも無関係ではなくなるので先に言っておく」
「はい。なんですか?」
子子子はとうとつな鷹司の態度に息を呑んだ。
「六角市のレッドリストを匿っている保護区域が何者かに襲撃された」
「はっ!?」
「それが官邸中が騒がしかった理由だ」
「げ、現場の状況はどうなんですか?」
子子子の口調も早まる。
「まだ情報収集の最中だ」
「俺がY-LABにいたときは六角市はまだ静かだったのに……さすがは国の中枢」
「すでに防衛省のアヤカシ対策班が動いてる、が依然全容は掴めていない。守護山にあるレッドリストの保護区域のことは一握りの人間をのぞく秘密情報だからな。六角市でも保護区域のことを知る者は少ない」
「そんな大変なことになってたなんて。負力値は? 保護区域の周囲でモニタリングしてますよね?」
「気象衛星からも監視してるが、現状、そこまでの値の変化は見られないらしい。基準の範囲内というところだろう」
「まだ生き残りのアヤカシがいるってことですね。安心しました」
鷹司は目の前にある書類の束から一枚の紙をさっと引き抜いた。
「これだ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【アヤカシ 最新レッドリスト】
・確認済み 残存個体数 唐傘お化け 5体
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鷹司は隠すことなくそれを子子子に手渡す。
「えっと。唐傘お化け、か……。ちょっとマズいですね? 残存個体が五体……」
「レッドリストのアヤカシなら緊急性があるのはどの種でも同じだろ?」
「いえ。一概にそうとも言えません。これは俺の職業。魔獣医としての意見です。唐傘お化けっていう種族は室町時代くらいから江戸時代ころまで人間と共存共栄してた種なんですよ。科学が発達していないぶんアヤカシという存在がいても当たり前の時代だった。それは山にいる鹿や猪やなんかとなんら代わらない。まあ、動物だって長く生きればアヤカシの領域に入ってくる者もいますから。とくに狐は上級のアヤカシにさえ昇華する。昇華とは魔獣医学や魔障医学の専門用語で”種”の壁を越えて変化を起こす状態のことです。分類上は動物の狐でも齢で百を越えたころほぼすべての個体がアヤカシへと昇華する。なかでも九尾は九百年を生きた狐でもっとも上位の存在になります」
「ああ、九尾の狐、上級アヤカシだろ。それで?」
「唐傘お化けや化け束子は人間にとって畏怖でありながらも子どもを躾ける子守の役目なんかあったし、ときには友だちということも」
「ああ、それは知ってる」
「そこからが問題なんです。このタイプのアヤカシの負力構成は静的負力ベース、なんですが、必ずといっていいほど数パーセント希力が混ざっている」
「希力だ、と? 排他的固有種の座敷童でもないのにか?」
(九条の言うとおり子子子はアヤカシに希力を含んだパターンの知識があるみたいだ、といっても救偉人の魔獣医)
「はい。人間に対しての警戒心が少なかったり人間に好意的な種族にその傾向が多く見られるます。むかしある研究で日本の学校の怪談にでてくるタイプのアヤカシを調べたことがあるんですが、なんと七割から八割の確率で希力が検出されました。能力者のなかにも己へのダメージも顧みずアヤカシを退治するときに自分の希力を込める者もいるとか。それによってアヤカシは自分が退治されていくことの恐怖心が低減される。いままでは能力者の勘や経験則だったんでしょう。でも俺はそのエビデンスをつきとめました。近日中に世界発表されます。たしかに能力者の希力を含んだ攻撃はアヤカシの苦痛や恐怖を薄れさせます。麻酔みたいなものですね」
「子子子。さすがだな」
「いえ。これも俺の仕事です。もともと少年少女たちの生活の場から発生するアヤカシだから最初から凶暴性が低いんです」
「ようは憎しみの感情の少ない子どものイメージから造られる鋳型のアヤカシだからそうなると?」
「はい、とはいっても子どもでも犯罪や大きな事故、猟奇的な事件で命を落とした子はそのかぎりではありませんけど」
「学校の怪談のアヤカシの大半が静かなやつということか?」
「はい。もっともブラックアウトの兆候があれば退治は絶対ですけど。そういう静的負力ベースの種族が滅んだ場合に放出される負力は大きくなります」
「唐傘お化けはその種というわけか?」
「そのとおりです。例えば邪魅なんかのアヤカシが絶滅してもそこで生まれる負力は莫大とはいえそこまでではありません」
「なるほどな。魔獣医からじゃなきゃ聞けない話だ」
「よくあるじゃないですか。子どもとアヤカシの友情物語なんて話。だから欧米でいう重層累進・悲嘆。日本でいう歴史の罪は江戸時代の負力がいちばん穏やか」
「徳川家が二百六十年統治していて大きな争いがなかったからな。農民や商人一般市民の暮らしも比較的に豊かだった。まったく官房長官としてその為政を見習いたいもんだよ」
鷹司の皮肉に子子子は苦笑いした。
「国政は命がけですからね。日本においていちばん悪質性の高い負力は室町時代と安土桃山時代の負力。そしていちばん厄介なのが昭和の負力。戦地や災害地からの発生する負力はとてつもなく大きくなります」
「昭和か。世界大戦と高度経済成長と不況が同居している元号だ」
(X(並走)軸の元号の”修文”と”正化”という時代が交通しはじめてる。そうなれば未知の性質の負力が流れ込んでくることになる……。世界の負力と希力の比率ががさらに崩れる)
「単純に考えても世界中の負力が増えれば。アヤカシも増え、魔障の患者も増える。さらに忌具も活発化する。完全なる負の連鎖です」
「わかってるよ。G7でも話題にあがるからな。各国首脳の懸念材料は二酸化炭素やフロンガスなんかの温室効果ガスの排出量だけじゃないってことだ。負力をどう抑えるかが課題。個々が自由を叫ぶ世界。やがてすべてのリソースを食い潰し社会の底が抜け落ちるだろう。魔障専門医やおまえのような魔獣医はとくに理解してるだろ。カタストロフィーに至るまでの経緯を?」
「簡単にいえば世界中の負力が増大し決壊を起こすことです。負力の決壊の判断は単純で終末時計が零時の針を指したときに終焉がはじまる」