1、「未完のマリア -通り雨-」
雨、雨、雨、いつものように雨が降っている。
乾いた大地をさらに焦がしていく雨粒。
この雨はそのうち止む、そう、これはただの通り雨なのだから。
男の体がふわっと浮いた、男自身にも足の裏が一ミリほど浮いた感覚があった。
足が地面に着くか着かないかのとき遠くから聞こえてきたのはいつもの爆発音。
なんてことはないこれも生活の音だ。
空そらを裂く音とともにいくつかの戦闘機が男の頭上を通りすぎていった。
耳に残ったのはその音と鼓膜を押す空圧だけだ。
今日はまだ雨は止みそうにない。
しばらくすると、ここからそう遠くない場所で傷痍しょういの雨が降るだろう。
※
男は戦闘機が去っていく気配を察し地上へと歩みを進める。
視線のはるかさきでいくつもの煙が立ち上っているのが見えた。
雨に撃たれた人がいるかもしれないとおぼろげに思う、でもあれはただ運が悪かっただけだ。
とくに心に残る出来事でもない。
運命だなんだの話をするならこの国に産まれたこと自体がハズれだ。
ボロキレに包まれた自分の手を引く女の姿が、物心ついたときにあった男の中の記憶だ。
抱きしめる力でしか判断はできないけれどあれがたぶん母だったのだろう。
女は爆撃に揺れる掘っ建て小屋で振動のリズムに合わせて腕の力を強めた。
それでいながら壊れ物を扱うようなクッション性も宿していた。
庇護ひごそんな行動原理だったのかもしれない? いつしかその人を見かけることもなくなった。
男は漠然と思う、ああ、死んだのだろうと。
この場所では爆弾も銃撃も天気でしかない。
天気予報の降水確率なんてまったく当てにならない、なぜならここで降る雨は人工雨なのだから。
雨に当たるとたいていの人はいなくなってしまう。
内戦国での「死」とはただの生活習慣病でしかない。
2、「未完のマリア-偶像崇拝-」
発端は崇あがめる対象がすこし違うそんなところだ。
それが何十年とつづいて誰がどんな大義でどんな信念で争っているのかもう誰にもかわからなくなっていた。
「やられたからやり返す」そんなことを繰り返す。
味方だったはずの者も簡単に分裂していく。
誰に対しての味方だったのか? 誰に対しての敵だったのか?の定義は曖昧だから。
それでも五年前までこの国は独裁者によって支配されていた。
男にとってはそれは「支配」でなく「統治」だった。
たしかに恐怖と暴力による統治ではあったけれどメリハリがあった。
空から月を吊るしたような静かな夜に爆撃はなかったし、いくつかある記念日も必ず休戦だった。
独裁者の誕生日の前後一週間も静かだった。
文字通りの祝日だ。
祝いに争い似合わないから銃を置く。
あるようでないルールがたしかにあった。
独裁者は男に休みを与えていた国民に休みを与えていた、それがすべての人の共通認識だ。
やがて「義勇」という旗の元に集った多国籍軍が独裁を終わらせた。
なにに抗いなにと戦っているのかわからない箍の外れた獣は蜘蛛の子を散らすように各地で己の力を誇示しはじめる。
場所、時間を選ばず見境なく雨は降った。
昨日、仲間だった者は明日敵になる。
勇しい義の人たちは魔王を倒したからとっくに帰ってしまっている。
魔王がいなくなってからのほうが遺体の数は増えた気がする。
それはまるでこの国に自生じせいするように腐敗臭を放ってそこかしこに横たわっていた。
明確な「敵」が玉座に座っていたことが、どれだけありがたいことだったのかと男は思う。
独裁者がいるという自己顕示は現場不在証明になる。
鉾を向けるべき相手がいればこそ民ひとはまとまるのだ。
安物の椅子に腰かけた敵はそこかしこに溢れてた。
それは男にとって敵なのか味方なのかわかない。
銃を向けるから撃つのか? 撃とうするから銃を向けるのか?
そんな道理がまかりとおるならばこの混戦はとっくに終わっているだろう。
3、「未完のマリア-偽聖母-」
「マリア」
男は勝気な目で自分を見る十年下の妹の名を呼んだ。
「お兄ちゃん。まだ外にでたらだめだよ」
マリアは活動的でいつも快活だった。
ある日いまだかつて会ったこともない髭面ひげづらの人物が「男の父親」だと名乗りマリアを置いていった。
男は無条件にそれ受け入れた。
この場所で家族の増減なんてたいしたことじゃない。
保証なんてのはなんの保証にもならないからIDみぶんは己の口から発するだけでいい。
いつも見かける人を見かけなくなって誰かが――死んだ。といえばそれは死だった。
男の父親という人物がこの幼子こはおまえの妹だといった。
だからマリアは妹になった、それでいい。
背を比べてみても男よりもずいぶんと低い。
姉といわれれば姉であったはずだが、あいにくマリアの年歳は男よりもずいぶん下だった。
姉であれば頼ることもしたのかもしれない、でも妹だといわれたから妹だ。
男が弱さを見せるわけにはいかない、小さく、か弱い者を守る。
見ず知らずの父親と名乗る者のたった二言、三言の言葉であっても不思議とそんな気持ちが湧き上がってきた。
なにもかも麻痺したこの場所でも男の心は麻痺してはいなかった。
血の繋がり? そんなものはどうでもいいんだ。
マリアだってそうだったに違いない。
雨音がしたときにマリアが男の手をギュっと握ってくる……その手のひらの暖かさと柔らかさがマリアを守る理由だ。
人間にあらかじめ備わっているなにかが胸の奥で躍動している。
この国でマリアなんて名前はよくある名前だ。
すべてが死んだこの国ではかすかな救いを求めて多くの女の子にマリアと名づける。
小さく無垢な命に聖母を見るからだ。
だが聖母マリアは早ければ十歳に満たない歳でただの母になる。
性を知る前に男性が少女を蹂躙するから。
それが通過儀礼だと大人も見て見ぬフリをする。
助けを乞う声さえ相手を許容した合図にしかならない、あまつさえそれは嬉々としての含みととらえられた。
ありふれたマリアはまた望まぬマリアを産み落とす。
この掃き溜めの国で誕生を祝福されることはめずらしい。
それでも食物連鎖の頂点に立くらい稀な相思相愛の奇跡もあった。
多くのマリアは父親不明のまま十余年を経て同じように父親不明のマリアを生む。
途切れることのない悪循は悪循でしか繋がっていかない。
聖母になれないままのマリアが溢れていく。
あいにく妹のマリアはまだ、その十には至っていないしつぎのマリアを身籠ってもいない。
宙ぶらりんのマリアはしばしの猶予が与えられていた。
どうか、この負の連鎖を断ち切りたい。
男はそんな考えがいかにありきたりなのかと自嘲する。
それはこの国の誰もが思いつづけてきたことだ。
自分はまるで誰も思ってこなかった新な発想をしたとでもいうのか? なんら解決には至らない無意味な考えのあとに残るのはただの自己嫌悪だ。
かといって自分に世界を変えるほどの特別な力はない。
それでも男には目標があった。
この小さなマリアの手をマリアが望む相手と繫ぐこと。
男は兄だった、たしかに兄だった。
両親のいない不遇の兄妹。
この国での不遇とは普遍だ、一般だ、常識だ、当たり前だ。
マリアにきれいな純白を着せる御伽噺のような世界を望んでしまっていた。
ありもしない、そんな未来を……。
薄汚れたこの場所で「白」が「白く」いられるはずはない。
国の外にも国がある、そこにいけば男たちに降る雨は止むかもしれない。
それには一滴の雨にも当たらずに国外にでるしかない。
男はときにそんな絵空事を描いた。
※
4、「未完のマリア-未完のマリア-」
雨は突然降りだした。
雨、雨、雨、今日は悲鳴の雨を伴っている。
この町の上空をこんな低い高度で戦闘機が飛ぶことはない? なにが起こったのか? そんなことは知るよしもなかった昨日の味方が敵になることは日常茶飯事なのだから。
この国にまっとうな理論が通じるはずもない。
道理なんて筋道を通すのことはすべての砂漠を舗装するよりありえない。
それは尻から煙を吐き出してキツネの尻尾のようにしゅるしゅると飛んできた。
先端がピンと尖がっているなにかだ。
新種のミサイル? 空を裂く音を立ててものすごい速さで飛んできた飛翔体はわずか数秒後に男に衝突してしまうだろう。
どうしてそんな物の前に立ちはだかるのか? 勝気だから? そんな理由で片づけるのは簡単だった。
体を大の字にしてマリアはその進行方向のど真ん中にいた。
どうして?
――お兄ちゃん。
男はいまさらながら知った。
妹であっても兄を守ろうとする行動理念があったことに。
まさか庇護すべき相手に守られるなんて。
男がいるこの場所からはマリアのいるそこまでそんなに離れてはいない。
それでもどうやってもマリアを抱き抱えて地面を転がる場面を想像できない。
あの飛翔体の速さには、どう、あがいても追いつくことはできない。
簡単だったあまりにも。
男の目の前でまだ六歳のマリアは砕け散った。
陶器でできたマネキンのように小さな破片が散らばっていた。
未熟で未完成な片腕だけが乾いた土の上に転がっている。
爆弾が降ってもめったに土地を潤す雨は降らないこの地にマリアの片腕以外なにも残ってはいなかった。
偶然なのか必然なのかマリアの片腕はきれいなままでその形を残している。
最大限に伸ばした腕と大きく広げた手のひらで精一杯兄を守ろうとしていた。
天を仰ぐ手のひらは今でも素手でミサイルを掴もうとしている。
男はあの手をマリアの望む相手に繫がなければいけなかったのに。
できれば幸せというものになってほしかった。
でなければマリアの人生は完成しない。
残酷なんて言葉で済むほど簡単じゃない状況もこの国ではめずらしいことではない。
こんなことならつぎのマリアを生むためだけのレールに組み込まれてもいい。
だからマリアには生きていて欲しかった。
その惨劇を見て散り散りのマリアに生存を望むのは難しい。
マリアを砕いたミサイルはフラフラと揺れながら軌道を変えて後方の家を粉微塵にしていった。
一緒に死ねればよかった。
どうして生き残った? 男だけを残す選択肢を誰が決めたのか? それが崇めるべき者の意思なのか? あいにく男には崇める対象など持ち合わせてはいな
い。
祈りの帰結が棄却だということを知っているから。
この国に産まれたときからそれは自分の遺伝子に組み込まれている。
誰もが諦めることでしか精神を安定させることはできない。
できない弱者は人工的な楽園にいくしかない。
みんな極楽を見る煙を吸う、天に昇る注射を打つ、こんな地獄は現実として受け入れられないから。
頭が幸せになる薬が必要だ。
廃墟の町でそこらじゅうに落ちている乾燥した葉っぱと注射器。
誰かの死は生活習慣病でしかない。
マリアは不摂生が祟って命を落としました、ああ、かわいそう。
そんな会話の一部にしかならない。
マリアの終わりに舞った砂煙と土埃と血の臭い。
マリアの血飛沫が男を染めた……たった今本当に血が繋がったんだ。
絶望が巣食うこの国でこれはただの通り雨だ。
マリアは雨に撃たれた、ただの不運な女の子。
ここが地獄だってことはとっくの前にわかっていたことだ。
それでも男は煙も吸わずに注射も打たずに世界を見てきた。
楽園にいかなかった男は強者だった。
※
5、「未完のマリア-祈りの棄却-」
男はマリアの片腕をきれいに拭いて土の中に埋葬した。
無垢なマリアの腕を乾燥した大地に埋めるのは少々忍びなかった。
それでもこれからのマリアの安息を願うにはしかたがない。
男は手のひらを下に向けることを忘れなかった。
マリアの手のひらが天を仰ぐかぎりそれは永遠に男を守ろうとする意志に思えたからだ。
男はそのわずか三日後に彷徨い歩いていた場所で爆弾に撃たれて死んだ。
簡単にあまりにもあっけなく、ごみより軽い命は散った。
男だけを残す選択肢なんてはじめから存在してはいなかった。
マリアが死んだあの日誰かの意思で生き残ったわけではない。
「生を約束させる代わりに国の復興を目指せ」そんなメッセージだったわけでもない。
マリアと一緒に死んでいようがいまいが死の期日に大差はなかった。
それでもたったひとつだけ感謝することがあるならばマリアの腕をきれいなままで埋葬してやることができた。
不思議と怒りや憎悪はなかった。
心はただ羞恥心で満ちている。
ひとつ気づいたことがある。
マリアを処女まま男に引き渡したのは本当にマリアの本当の父親だったのではないか? マリアは驚くほど国の垢がついていなかった。
ひょっとするとあの髭面の人物はマリアを大切に育ててきたのではないか? あの人物はマリアが本物の聖母になれるかもしれない万が一の可能性に縋っていたのかもしれない。
今となってはそれを確かめるすべはない。
死した男にどうして意識があるのか? それを教えてくれたのは誰かわからない誰かだった。
唯一神男にそんな絶対的な信仰はない。
それでもはじめての崇めるべき存在に出会った。
男の意思を現世に留めているものそれは星間エーテルいわゆる魂の正体だ。
そうなった理由は憐憫、卑下、そして羞恥。
死んでも死にきれないほどの恥ずかしさ。
胸を掻っ捌いて中を掻き毟りたくなるほどの恥ずかしさだ。
男は妹に守られて助かったこれほどの屈辱はない。
比類なき羞恥心は憎悪をも越えた。
羞恥によって現世を彷徨う事象はめずらしい出来事だ。
魂……。
そんなものがあるか? それでも万国共通”魂の在り処”は遺された者の心の拠り所だ。
身内の死を認識したあとのつぎのステップはいかに遺体を弔って天に魂を導くかにある。
魂の平穏を願い、安息を願い、人は手を合わせる。
むしろそれは遺された者の心を鎮めるためだ。
マリアの腕をそのままにしておけなかったのもつまるところそういうことだった。
瓦礫のなかにある端材の二本でさえ交差させると十字になる。
それがあるだけで安置のシンボルになった。
祈りの帰結が棄却であっても十字架に願いを込めずにはいられない。
願いと魂は同質なのかもしれない。
願いや祈りの到達点と魂の終着点が同じならば祈りも願いも届いている? 届いてはいるけど応答ができないだけ? という思考にすこしだけ傾いた。
男が体験したあの出来事をもってしても――たいしたことではない。といってのける崇拝者。
あれがたいしたとじゃないなら本物の地獄はよっぽどだろうな。
世界にはもっと汚いごみ箱があると教えてくれた。
本心をいえば男にも多少の猜疑はあった。
あの国よりも汚い世界があるわけがない。
崇拝者はいった――本物の地獄や偽物の地獄なんてのはないのさ。
ただおまえのいた場所がそういう一区画なだけだ。
崇拝者はやっぱりすごい。
男はただ狭い世界にいたがゆえに考えが及ばなかっただけだ。
世界にはたくさんの区画がある。
どこかにあるという島国には心をすこしずつ削っていく地獄があるという。
男は俄然興味がわいた。
崇拝者は男に「ウスマ」と名乗ってほしいといった。
ウスマは喜んで受け入れた名前なんてどうでもいい。
崇拝者は褒美もくれた――それで好きなモノを斬れ。
ウスマは崇拝者の属になった。
そんなことは当然の義務だ。
ウスマは何度かの転生を繰り返すといつの間にか雨は止んでいた。
でも別のどこかで今日も悲鳴と爆弾の雨が降っている。
あれから、何年、何十年経っただろう? ウスマは心をすこしずつ削っていく島国にいた。
その地獄には空爆がない。
本当にここは地獄なのか? なんて崇拝者を疑うことはもうしない。
――人身事故により運転見合わせです。
――ビルから飛び降りたということです。
――ビニール袋に包まれた赤ちゃんが発見されました。
――ともに高齢でおたがいに介護をしていたということです。
ウスマは心をすこしずつ削っていく地獄の中で強い光を宿した少年に出会った。
――九久津堂流。
ウスマはこんなふうに勝気な瞳を見たことがあった。
「おまえはマリアを救えるか?」
「……ん? なんか困ってるなら力になるけど?」
END